A.誓いて契るは恋し彼にて
『鶴丸殿、申し訳ありません……私が騙されたばかりに……こんな……』
夢を視る。俺はその中でずっと、泣く男を視ている。それがいつも、悲しい。
――泣かないでくれ。
火の粉が降り注ぐ中、彼の背には炎が見える。
焼け落ちる梁を払い、俺を抱いて泣きながら進もうとする愛しい男の頬を、力の入らない指で辿れば彼は俺をきつく抱き寄せた。
『もう少しですから、鶴丸殿。どうか、貴方だけでもここから……』
そう彼が俺に言ったとき、一際大きな梁が落ちてきて俺と彼はそのまま燃える広間に倒れ込んだ。
衝撃が過ぎて目を開ければ、俺を庇って梁を背に受けながら貴方に当たらなくて良かった、と笑う彼の姿があった。
(君が焼けてしまう)
火は苦手のはずだ。彼は焼けた城を見たのだから。それでも彼は深手を負った俺を庇う人。脇腹を指され両の脚が折れて歩けない俺など捨て置けばいいのに。
俺がいなければ、君は逃げられるのに。
(でも君は、真っ直ぐで純粋な男だからなあ……)
天下一振など私には相応しくありません、そんなものはいらないと言う欲のない性格に恋をして、沢山の弟達に慕われる君が俺に振り向いてくれたことが俺の幸せだった。
でも俺は、想いを口にするのは下手だった。
いつも彼に好きだと先に言わせていて、それが苦しかった。
だから俺は――自分に返ったのだ。
君を大事にするのを怠ったから、今俺は君を悲しませている。
(こんなはずじゃ、なかった)
君に好きだと言ってもらえて、俺は幸せで言葉が出なかっただけだ。
全部夢じゃないかと思っていて、自信が無かったんだ。
でも、もっと想いを口にするのを頑張れば、良かったな。
(そうしたら、俺は君を一人になんて、しなかったさ)
そう思って彼を見ると彼は俺に申し訳ありません、と繰り返す。この彼が誰よりも誠実で優しく、兄弟を、仲間をひたすら想ったことを俺は知っている。
その彼を愛したことを俺は後悔していない。それをなんとか伝えたいのにもう上手く息が吸えなくて、声にならない。
(謝るのは君じゃないさ)
こんなはずじゃなかったよなあ、一期一振。
君は何もしていないじゃないか。君は何一つ悪いことはしていない。皆騙されただけ。
何も罪が無い君に押し付けられた罪を覆せなかった俺の方が不甲斐なく、愛している君を助けられないまま逝く俺を許してくれないか。
君を、1人にしてしまう俺を、どうか。
(俺は、君に罪が無いことを知っている……)
君が犯人でない証拠を、俺は見つけた。それを君に伝えたいのにもう、声が出ない。
煙が肺に充満し、視界がかすむ。彼が俺の名を必死に呼んでいるのに。
ああ、どうか、神様。
彼を、どうか。
「一期。俺は君を――」
愛している、は声にならない。
**
――いつか、君の怒りと哀しみが癒えるようにと願っている。
神格の末席に就く、弱い付喪神であったとしても願えば他の神々に届くというのならどうか。
(俺の愛した彼を……助けてくれ)
本当は彼の謂れ無き罪を俺が雪いで、ずっとずっと一緒に居たかった。
**
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
(弟橘姫『古事記』)
この歌は「相武の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味の歌らしい。
――実際会ったことすらないのに逸話が切なすぎると忘れられない、なんてことが付喪神たる自分にもあるのは本当に人間のようだ、と言うのが最近の俺の思うことだ。
俺は女ではないから女の歌を詠むのも変な話だ。でも俺はこの歌が好きというか、自分を護ってくれた男に想いを馳せる女の歌が、どうにも忘れられないのだ。
この歌は、この国のかなり昔から伝わる話――この国の日嗣の御子で敵の火攻めにあった際、機転で草薙剣を振ったことで窮地を抜けた。その時に一人の姫を護って戦ったという逸話――の中でその逸話に出てくる姫が、自分を護ってくれた御子に読んだ歌だ。
この歌を俺が今口にするのは、今の気分にそれが相応しいと思ったからでもあった。
中央座標から北緯31度、東経130度あたりに位置する、所謂薩摩国の中心部。封鎖されたとある本丸の跡地の前に俺は佇みながら、そんなことを考えていた。
俺は一応平安生まれではあるがそれは自分の事を他人が記した資料によって認識したことであり、生まれる前の時代など知らないし、俺が知る真実など一部分だろうなと思って生きている。
いつだって、物事には様々な側面があるもの。
自分がいつから刀に宿ったのかなんて正確に覚えてすらいないが、それでも記憶だけは膨大にあり、きっかけさえあれば思い出すもので。
別に本丸の様式とかに拘らず、自分できっかけに出会い、学びながら自分の記憶と書物のすり合わせを行えばまあまあそんなこともあったな、位の認識は俺でも出来る。
雅さに拘ってはいないものの、仕事柄か多種多様な切なさを眺めていると和歌を詠みたくなる過去の人間の気持ちもわからなくはない、というのが俺の正直なところだ。
閉ざされた門の先にある、寂れ、あちこちが燃えて壊れた本丸の跡地が俺には少し視えるが、苦手な奴にはこういう場所で正気を保つのは無理そうで、主が俺にここを調査する必要があるというのもあながち間違えてはいないだろう。
きっとそれだけではないのも気付いているけれど。
「のんびりもしていられないな。日が暮れるとよろしくない奴に掴まってしまうし。まあ、俺は墓に居たからある程度は良いとしても、それなりに厳しいぞ……引きずられる要因は、あるからなあ」
この所ずっと俺を寝かせない夢の原因は此処にある。
胸を掴まれる様に泣いてしまうその夢を何とかしないと、苦しくてたまらない。
(引きずられるなよ、鶴丸国永)
――同情するな、いつもみたいに冷静に行けばいいさ。
そう言い聞かせてから一度大きく深呼吸する。それからここで仕事をするために必要な道具を詰めた銀色のアルミケースを持ち上げると、『封』と書かれた札が張り付けてある本丸の門にそっと触れて、
「鶴丸国永だ。どうか、入れてほしい」
そういうと、はらり、と札が一枚落ちた。それを拾い上げ懐にしまう。出る時に必要だからこれは大事なものだ。それからすぐ、俺は僅かに空いた門にするりと身体を滑り込ませた。
**
[山城国 す17号本丸所属] の唯一の刀剣男士である俺、鶴丸国永は最近ずっと同じ夢を見続けていて不眠である。
俺が本丸でただ一人きりなのにはちゃんとした理由がある。非常に面倒くさい経緯だがちゃんと言うとこういうことだ。
2205年から始まった歴史修正主義者と政府の戦いは、始まった時に比べて30年後の今はかなり様変わりしている。
最初は皆一律に審神者及び所属刀剣男士は霊力によって構築された特殊空間に居を構えそれぞれの時代の特定合戦場において歴史修正主義者と戦うのが主流だった。
しかし長引く戦闘だけの時間は審神者の霊力も精神状態も追い詰めることになり、4年間で大量の審神者が霊力枯渇などで生命の危機に陥り、多くの審神者が中央政府のアシストを得ても本丸を維持できなくなり、多くの本丸が閉鎖された。
その結果審神者の数は減っていき、維持できた審神者にしわ寄せが行くようになるのは自明の理で、霊力枯渇の恐怖や作業量の増大で多忙を極めた事で精神的に追い詰められた審神者達は、刀剣男士に対する暴力行為や慰み者にする犯罪行為に走る者、心身の異常を発露する者が多発し、審神者は危険だというイメージが浸透し更に就任数が減ってしまう。
その問題を解決する為に中央政府は、審神者の霊力及び能力属性を定期的に測定しデータベース化を図り、特性によって本丸の活動内容や活動時間を制限及び要請する代わり社会保障や賞与を充実させ、国家公務員に相当する「技官」に準ずることにより、安定した審神者適合者の獲得を図る。
その政策は成功し、現在の審神者の総数は2217年の最低値からは順調に回復。ここ10年ほどは安定して国防にあたれているのでは、あるが。
――西暦2218年、7月16日の午後18時44分、いの66号の本丸で突如発生した一期一振を首謀とする粟田口派の刀剣男士14振りによる審神者惨殺事件が起こる。
審神者が刀剣男士に殺害される、という異例の事態はやっと安定して審神者を獲得できるようになった中央政府には非常によろしくない事件であり、真っ先に隠蔽される。他にも同様の事件はその後も幾つか起こっていたのにそれら全ては隠蔽され、その殆どは祓いと清めを行って別の本丸を建造し運用を始めたが、そこでは悉く心霊現象のようなものが起こり、最終的にその本丸は封印指定を受け立ち入り禁止として存在自体を無かったことにされるようになった。
だが、人の口に戸は建てられないもの。
どんなに厳重に隠そうと、いつかは別の事で真実は暴かれる。
1年前に起こった歴史修正主義者による本丸乗っ取り未遂事件がきっかけとなり、過去の審神者の死亡例は疾病や怨恨ではなく外部からの攻撃説――歴史修正主義者が審神者を排斥するための策略の可能性ではないかという説――が浮上し、再び審神者イメージは低下。就任数が2217 年の最低値に近づいてきたため中央政府が発足した役職が、俺の所属する『事件調査本丸』だ。
『事件調査本丸』に着任する審神者の特殊能力は『復元』であるため、業務内容としては近年から初期まで遡り、どうにもならなくて封印されて使えない数々の曰くつき本丸の事件の原因の特定を任されている。
役職として『監察医務院』と『科捜研・科警研』『事故調査委員会』等に相当。やることは結構難しい鑑定ばっかり。
それに加えて主は霊力の殆どを復元と鑑定に使うため、その間は刀剣男士を維持できないという制限付きだ。俺より先に喚ばれた刀達は3日と持たなかったらしいが俺は何故か耐えられて、所属できる事になったのだが、それ以降の適合者は今の所顕れていない。
具現化するたびに消えてしまう同胞を見ながら、それでもしばらく鍛刀は辞めなかった。だが、流石に10振り連続で1日と持たず消えると、流石の主も堪えたらしい。
それから主は鍛刀を一切しなくなり、仲間のいないまま俺は練度を上げた。
だが単騎では限界も来る。俺は残念ながら合戦上の攻略は江戸の記憶までとなり練度は32で止まった。
そんな経緯は何処からか漏れたのだろう、周りからはうちの本丸は弱小と呼ばれ役目が終わったら刀剣男士はお払い箱な本丸だと有名である。
俺としては力があるからなんだ、と言うのが正直な気持ちで。力があってもそれに驕って同胞を虐げるよりは、力が無くてもそう言うのと無縁でいた方がいいに決まっているのでうちの本丸は大分健全でいい事だと思っている。
だからだろう。霊力の強さが持て囃される審神者界隈の常識はうちの本丸には通用せず、うちの本丸では16世紀から17世紀にかけてのイングランドの哲学者、フランシス・ベーコンの格言である『知識は力なり』を貫く合理主義性。
種族の違いよりも「共に生きていく」という思想を俺は嫌いじゃない。その代わり自立も強いられるが、自由は多いと感じている。
だが、感情的ではないように見えるらしく仕事以外で他の審神者や刀剣男士とあまり交流はない。医療系と警備系の本丸と多少業務連携している位の人間づきあいが少ない本丸だ。
まあ、俺は賑やかが好きってわけじゃないからそれ辛いとか寂しいとか感じることはなくそれで構わないのだが、誤解も多く苦労はしていている。
人手はいつも足りなくて忙しく、俺も主も他人に頼らずできる事は何でもやることを強いられていて作業量は多い。
そのせいもあってか主との仲は普通だ。むしろ良好と言えるだろう。
主は妻子持ちで仕事が一段落着くと速攻で帰宅してしまうので、主が再び出勤するまで俺はずっと本丸で一人悠々自適に暮らしている。掃除だの炊事だのはロボットもしてくれるし、俺も暇なときは一緒にすることもある。だが、大抵は任せきりだ。
俺は元々刀の属性が強いのか、人間らしい刀よりはロボットの方が気楽だったし主もあまり感情的ではないので俺としては作業量が多くても快適極まりないのだが、最近少々困る事態が起きた。
――それが、このところ俺がずっと見続ける同じ夢である。
(名前を呼ばれて泣かれる夢は、中々にきつい)
炎の中で悲しそうに一期一振に名前を呼ばれるその夢を一度見て涙を流してから、毎日それを見ては涙が止まらないし、眠れないのだ。眼も腫れて細かいものが見えづらい。
それでも仕事はしていたが、作業効率は落ちて忙しさは倍増。
丁度2週間前に一時期だが業務提携していた警備本丸所属の一期一振(同期だったと最近知った)が折れ葬儀に参列した時にはさして知り合いでもないのに泣き続けてしまい、遺された弟達には喜ばれたが、俺としては精神的に疲労困憊だし追い打ちの様に誤解極まりないうわさも流れ始めた。
『山城国のある本丸の鶴丸国永は一期一振に特別な思い入れがある』
俺としては踏んだり蹴ったりである。俺はただ夢を思い出して泣くだけで、全部の一期一振興味があるとか、そんなことはないのに。
ただ身体の制御が効かないだけだ。それだけ。他に理由なんてないはず、だけど。
「一期一振と同じ顔と声でも、呼び方で破壊力が全然違うなんて知らないぞ……」
あんなに切なそうに泣かれると、正直困る。
俺は彼の見ている鶴丸国永ではないのに、まるで同じであるかのような気分になって強烈な哀しみが拭えなくなって、このままでは仕事に支障が出そうだと主に状況を話したら、ある本丸の話を聞いた。忘れ去られた本丸の話。資料があるよ、と言われて読んでみたらどうにも夢と一致する点が多く、俺は休みの度に資料を漁る様になった。夢に色々解釈をつければいいと思ったからだ。
だが、上手くはいかず夢はどんどん鮮明になり俺は泣き続けて目が腫れてしょっちゅう目を冷やす羽目になるし、眠ればあの夢で不眠症。見かねた主は俺に回してきた仕事がこの本丸の調査だ。実際に調べればいいと言うことらしい。
――そんな訳で俺は自分の為にも此処に調査に来る必要があり、この本丸にやってきたというのが長ったらしい経緯だ。だから先の和歌を俺が口ずさむに至る。
紋の内側に門を開けた時に剥がした封じの札を貼り付け、外からの侵入者を防ぐ。ここで証拠を採取しても奪われては本末転倒だ。
俺は門の前に主に覚えさせられた通りに、主謹製の精巧な俺の『複製』を置く。
万が一俺に何かあったら、これが壊れて主に報せる仕組みだ。所謂「形代」。原理はよく知らないが、これで俺の危険はある程度回避できると言われて続けている。今の所この複製が壊れたことはないのだが、念のために封じの札の真下に置いた。
それから俺は、燃えて崩れてしまった廃墟のような本丸の中を歩き始める。
サク、サク、と燃え墜ちた木片を含んだ庭の土を踏み締めて奥まで進んでいく。
事前に叩き込んだ設計図通りに、現場を必要以上に荒らさぬよう歩くのは庭の部分だけにする。審神者の部屋の前には開けた庭があったらしいので、そこで準備をしたら本丸の中の指定地点の試料を採取するのが俺の仕事だ。
「資料では、此処はどんなにやっても祓いも清めもできなくて事件当初のままって話だったなあ」
右手にアルミケースを持ったまま、出来るだけ足音を控えて僅かな枠組みとなった本丸を歩きながらそう呟く。
庭だった部分は殆ど無事だった。まあ、燃えるものが無かったのだろう。庭に咲いていた花や樹木は痛々しい姿で遺っていたものの、何回か清めの為に入った審神者も歩いた場所は庭で土がむき出しの部分のようで、そこをしばらく歩けば目的の場所に着く。
思ったより気を張っていたらしく、柄に無くふぅ、と深い息を付いた。
――中々に広い本丸だ。
(俺の所属する本丸は西洋式だから、こういう純和風の本丸は調査以外では入らないが、それでもかなりの規模だなあ)
この本丸の審神者の霊力は相当だったのだろうなあ、と思いながらそれを弑逆するに至ることがここではあったのだ、と思う。
事件当時の資料では、審神者の遺体から刀傷は1種類だけであり、刃長から一期一振と判定、弑逆したのは一期一振でその後犯行に気づかれたため粟田口派の刀剣男士と共謀し他の刀剣男士と戦闘。事件当時は夕飯時だった為に戦闘の影響によって厨から出火、本丸中に延焼した為最終的に生存者無しの可能性、という記述だったものの。
俺が読んだ感想としては、刀傷だけでそれを判定するのは浅慮過ぎるし一期一振の刀身を持ち出せて、彼の動きを再現できるなら誰でも犯行は可能なのではないかという気がした。結構な術者であれば自分の姿を誤認させることなど容易いので、外部犯だった可能性も想定したほうが良かったのでは、とこれまでの俺の経験上思ってしまう。
どうも最初の検証がずさん過ぎるのは、外部犯の可能性が高かったのにワザとそれを隠したからではないのか。それとも、その時点では外部から何かされるという発想が無かったのかもしれない。
(ここで、本当は何があったんだろうな……)
名を告げ、請えば資格のある者なら入れる。「閉ざされた場」というものは伺いを立てて拒絶されなければ入っていいということなのさ、と過去に主から言われていつも癖で事件現場に入る際は必ず名乗るが、それが適用されたということはこの本丸は『拒絶』が強い証だ。
事前に読んだ資料では審神者が祓いや清めをしようとすると、皆突如言葉が出なくなる現象が起きあらゆる音が消えてしまったため強行できなかった、との記述もあったことを思い出す。
(明らかにそれは何かが『居る』だろう)
手練れの審神者なのにそれが特定できないとはどういうことなのだろう。まあ、今でも審神者=使役して戦う、のイメージは強いから当たり前なのかもしれない。
或いは、此処が清められると不利益を被る誰かの策略か。
考え過ぎだ、と頭を振る。常々疑ってばかりいると、こういう頭になっていけない。
(まあ、戦いとは攻撃だけではないからなあ。守備も分析も、治癒も戦いだ。でも派手に戦闘することだけが持て囃されるのは歴史修正主義者に未だ後れを取る大きな要素のような気がする)
元々は審神者の概念は鎮めと弔い、祝いが中心であったという話だし、実際に俺が流れ着いた神社でも昔は舞も雅楽も戦いもそれを含めた概念で行われていた。
昔の神職でさえもそれを理解していたのに、時代に連れてその概念は薄れたのだろう。今の審神者に鎮めや弔い、祝いの心が無いのも当然かもしれないが、それでは敵と鼬ごっこになるのは当たり前と言えなくもない。
拒絶とは防衛本能の一種。強烈な怒りと悲しみが無ければ防衛という反応は起こらないから、此処を清める為には本当は何があったのかを知り弔いをすることが必須であると俺と主は考えているし、今まで再調査をしてきた経験でそれは成功している実績もある。だから俺は、知りに来たけれど。漠然と広い本丸で俺が本当に真実になんて、たどり着けるのだろうか。
(原因が分かれば、俺の夢も落ち着くのかもしれないが)
俺自身は彼の夢を見ることを止めたいか、と問われると疑問だ。俺は我慢弱いので、嫌な事を続けることに壊滅的に向いていない事は自覚している。
幾ら哀しくても唯の夢なら夢と俺の性格なら切り捨てられる筈なのに、出来なくて悩んだのはあの夢の中で俺自身が『彼』の無実を信じたからだ。哀しくて涙が止まらないのも眠れないのも仕事に支障をきたすから厄介だが、やはりあの『彼』があのままなのは、俺が悲しい。
(俺が納得していないから、夢が無くならないんだよな。やっぱり……)
資料採取の間ずっと、あの炎の中で泣いた『彼』―― 一期一振が犯人であるとはやっぱり思えなかった。だから俺は、この本丸の一期一振が犯人ではないと信じるが。
でも、俺が此処に来る以前に訪れた者全てが違ったとしたらどうだろう?
そうだったとしたら、この本丸にとって――いや、この本丸に囚われているだろう『何か』にとって頑なに祓いも清めも拒絶するほどの哀しい傷になってしまったのではないか。
(俺の夢の中の『彼』が泣き続けるのは、何ひとつ真実が明らかになっていないからなのではないのか?)
俺がこの本丸の資料を持って帰れば、主も俺もこの本丸で起こった幾つかの真実を知るだろう。それは理不尽で凄惨に違いない。俺に巻き込まれてそれの記憶をこの先視る事になる主の苦労を少し考えて申し訳なくなる。
(悲しいことを見るも知るのも、誰だって嫌なものだ。進んで哀しくなりたい人などそうそう居ないし、それを視なければ楽だろうけどなあ……)
だがそれでも俺は、知りたい。
――『彼』が泣いたままは嫌だから。
この本丸に囚われているのが『彼』なのかは俺に確かめる術はない。
俺が出来ることなど些細な事で解き明かすのは全て俺の主頼みだし、明らかになる真実をどれだけ訴えても覆らない事もあることは知っている。
それでも。
(『真実はどうだったか』を誰かが知って伝える事には、傷ついた者の為には意味があるはずだ)
俺と俺の主の仕事はそういうものだと理解している。だから俺は、その為に動く。
あの夢の一期一振を思っていた『俺』の為にも、その『俺』を案じて泣いたあの一期一振の為にも真実を知ることは必要だと、思うから。
「知ることは力だって言葉、うちの本丸の座右の銘だしなあ」
海を渡った先の国の昔の哲学者が言った格言を好んで引用し座右の銘にする主の癖を踏襲しながら俺はその場にゆっくりと腰を落とし、持ってきたアルミケースを開いて何の変哲もないただの白い布を広げた。
清めも何も施していないその布の上に座り、ケースの土を少し落として静かに置く。
それから正座をして、一度本丸を見てから口に出し頭を下げ、此処にいるらしい俺を呼んだ「何か」に語り掛けるように、言葉を紡ぐ。
「俺は祓いに来たんじゃない。清めもしない。ただ、知りたいんだ。ここで何があったか――君が嘆いた原因を知りに来た。そのためにいくつかここのモノが必要なんだが、俺の主は此処には来ることができなくてな。俺はその代理さ。俺が触るのを許してくれると助かる」
俺の言葉が『何か』に届いたかどうかは知らない。だが、何も起こらないから許可されたと解釈した俺はそれから徐にケースの中にある黒い手袋、土や水を入れる容器、採取道具などを一通り広げて作業を開始した。
**
作業自体は採取だけだから単純作業で、1時間もかからない。
特に問題もなく、必要な地点を歩き回りながらピンセットや採水セットなどで池の水を汲み、焼け落ちた木片だとか灰だとかを保存容器に入れる。
折り畳み式の籠がいるのは他人に触らせないためだ。用心に用心を重ねても不足ということはない。いつだって証拠というのはそれを消そうとする輩がいるものだ、というのは調査の鉄則である。
全部の試料を採取し終るまで気を張り詰めながらこなす。アルミケースに全てを片付けて厳重に封をし終えてやっと一息。邪魔も入らず順調に終わったことに胸をなでおろしながら後は帰るだけになった時には思ったより時間は過ぎて、想定よりは少々時間が押していた。
――早く帰らなきゃいけないのはわかっては、いるんだが。
様々な場所で試料を採取しながら歩き回った結果から総合するに、俺にはどうもあの事件の真実はやはり違うという想いは深まっていた。
(彼は犯人じゃない)
往々にして、真実は最初の犠牲者だというのは良く言ったものだ。この本丸を見る限りこの本丸の内外はよく手入れされた形跡があり、あの事件までに何か争い事があったような形跡は俺の今までの経験上考え辛く、住んでいた者たちは仲が良かったことは想像に難くなかった。
審神者の部屋、刀剣男士の部屋、刀装部屋に鍛刀部屋、厨房に大広間、大浴場……設計図で見た全てを回っても生活痕があっても頻繁に私闘があったとか、喧嘩があったような跡すらない。
(そんな本丸で、いきなり審神者が弑逆されるのはおかしい。内部の犯行じゃないんじゃないか)
俺の印象では一期一振の基本性格は往々にして真面目で、長兄として手本になろうとするきらいがあり、例え私怨を晴らす行動に出たとしても弟達を巻き込んだりするようには見えなかった。
俺が見ている一期一振という男の人数が少なすぎるのかもしれないから、全然違う性格の彼もきっといるとは思うのだが、この本丸の彼の性格は多分に生真面目で弟想いだった筈だ。
それは彼の部屋はかなり整理整頓されていたことと、彼の部屋に数回使われた形跡のある手作りらしいが破損した笹舟が大事に保管されていた事、彼の弟達の部屋にも同様の笹舟が状態に関わらず保管されて居た事から推測出来る。
――そして、それは粟田口以外の短刀や脇差達の部屋にもあった。
それらが全て燃えずに形が残っていたのは燃えづらい桐の箱にわざわざ笹舟を保管していたからだろう。
桐の耐熱温度は400度近いし、防湿性もある。軽くて丈夫な桐なら、身体の小さい短刀でも持ち運べる道具箱だろうし、和式の本丸の景観を崩さないとても良い調度品だ。一期一振ならそういう知識を持っていても不思議ではないし、多分に他の刀派の脇差や短刀が同じ箱を持っていたのは彼が弟達を特別扱いせず、必要な仲間に同じように贈ったからだろう。それは真面目な性格の表れだ。
資料で読んだ情報が正しいなら、この本丸の一期一振はかなり早い段階で鍛刀されていて近侍をしていたことを加味すると、細やかな気配りと真面目さを買われての事だと推測出来る。
その彼が弟達に説明できない事をするとは考え辛い。どう考えても彼が犯人という説は疑問である。
(怨恨なら事件の前に前兆のようなものがあるような気がする。不穏な空気って言うのは分かるもので、ギスギスした後とかいうものがあるはずだろ)
俺の見立てではそんな形跡はなく、事件当日までこの本丸は非常に和やかに過ごしていたと思う。突然起こった想定外の出来事だったのではないか、と思ってしまうのだが。
ひゅう、と風が吹き抜けて俺の髪を揺らした。
仲睦まじく生きていた良き場所だったであろう本丸の姿は、炎で焼け落ちた。
「共に焼け落ちる、か。まるで秀頼と淀殿の最後の逸話のようだな……」
運命に翻弄された秀頼と淀殿。あの2人の真実は何処にあったのかは誰にもわからない。
――本能寺も燃えた。大坂城も燃えた。大事なものは全て、炎の中では燃えて消えるがその中にも残るものはある。
(いつだって真実ってのは、灰を被せられて見えなくさせられている)
こんな理不尽は視た事が無かった。きっと俺以外の誰が見てもこれは外部犯の可能性を考えるはずだ。だが政府は審神者のイメージが悪化するのを恐れて真実を隠しておきながら、それも都合が悪くなれば翻して掘り返す。
(だが、それでも……)
明らかにされる方がいい。ここで何があったのかはずっと誰も知らなかったなら、今がそれを覆す機会の筈。それがまた否定されたとしても知っている俺や主が生きていれば、きっと後に同じことが起きようとする時に、防ぐ手立てのきっかけ作る事は出来るだろう。
――大事なことを成す時に、怒りはいらない。
(冷静になれ、鶴丸国永。同胞のされた扱いを雪ぐなら、怒りは必要無いだろう?悲しいのも泣きたいのも、理不尽に怒っていいのも、俺じゃないぜ)
何処かに、無いだろうか。彼が犯人でない証拠。彼の弟達が犯人でない証拠はないのか。
それさえ見つけられたら、全てが変わるのに。
(考えろ、考えろ。いつも言われているだろう、主には。思い出せ)
『いいかい鶴丸。証拠というものは必ず隠されている。何の変哲もなく、それがあって当然のような顔をしながら、でも本当は強いて無くてもいいものが大抵の原因だ。普段とは少しだけ違う事が故意に重なる時、そこに隠された真実はある』
考えていれば蘇るのは、いつも主が口にする言葉だ。探すときの基本。故意に重なる偶然。その跡を辿りさえすれば――。
(そういえば、事件発生当時は7月で七夕を過ぎた辺りだったな)
七夕。織姫と彦星に願い事をする日。祈願する時というものは、普段とは違う事をする。
資料では7月8日にこの本丸では平野藤四郎が修行に出る申請があったし、12日の午後18時に平野藤四郎の帰還報告は記録されている。真面目な一期一振なら平野の無事を祈願して七夕を盛大にしただろう。
本丸の皆の仲が良かったのなら、本丸を上げて祈願祭をしたに違いない。
そこには短冊を飾る笹を用意したはずだが、その形跡はなく。あったのは笹舟。
笹はある種、榊と同じ役割をする霊力を宿しやすい植物である。
(あの笹に、何かされていた?)
平野藤四郎の為の七夕の法会をしたなら、笹を用意する役目は一期一振が担うはず。七夕そのものに使った笹はもしかしたら短冊と共に焼却されたかもしれないが、笹の入手経路を一期一振りが持っていたのなら、きっとそれは弟達と交流するために入手出来る場所を以前から知っていたからに違いない。
――その笹に何かされていたら。
(笹を媒体にすれば術が使えるのでは無いか?何かされた笹を持ってきたのが一期一振なら、彼にも何かされた可能性はある)
外部犯と言っても突然の襲撃だと思っていた。野盗の類のような。だがもしかしたら、コレは用意周到に長い時間をかけて計画された襲撃だったのではないか。
(検非違使はそもそも異物排除が主体でこんな面倒なことをするはずがないし、こういうのを考えつくのは狡猾な人間だろ)
あの笹舟を鑑定して術の痕跡さえ有ればもしかしたら、審神者を弑逆した犯人は一期一振達ではないことが証明できるかもしれない。
「善は急げ、だな。塵になる前に全部集めてみせる」
――俺には、こんなことしかできないけど。それでも、あんなに泣いた君の涙が止まるのなら。
アルミケースを開ける。確認すれば予備の保存容器はギリギリ。足りると見当をつけて俺はもう一度本丸に早足で戻った。
**
気が付けば大分日が傾いていた。焦りながら何とか全てをアルミケースに詰めて再び封をしたときにはちょうど日が落ちる手前だった。
(なんとか残っていたものは全部集めたな。どれかひとつにでも反応が有ればいいが)
――たとえこれが全て無駄でも、なんとか真実に辿り着くきっかけにはなる筈。
思いつく限りの手を尽くしたら、変わることはきっとある。わかっていたつもりで忘れていた事を、再認識するとは俺もまだまだだな、と思いつつ、此処に来た事は俺にとって良かったと思う。
周りのうちの本丸が貶されているのに気づいてはいたが、恨まない為に聞かないようにしていた。
それは悪い事じゃなかったが、その為に萎えていく心があり、理不尽さに対する怒りや感情が見えなくなっていた。
俺が『彼』の夢を見て泣き、此処に辿り着いたのは必然だったのかもしれない。
俺にも、多少は同じ嘆きがあったのだ。だから、聞こえたのかもしれない。
「……此処に来たことを俺は、忘れない。ありがとう、一期一振。感謝する」
君の嘆きは知らないうちに死んでいた俺の心を助けてくれたぜ、と言って息を整えて跪く。
土に、指で、掌で触れて撫でる。
ぽた、と一筋涙が落ちたが袖口で拭った。それから瞼を閉じ、もう一度深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がると手袋をいつもの自前に付け替えてから懐に入れていた懐中時計を見る。時刻は丁度発生時刻。
今の季節は同じ夏だ。事件発生からちょうど今日は8年目。あの日もこんな景色だったのだろうか――と思いながらアルミケースを持ちあげる。
また来るな、と言って朽ちた本丸に手を振り門の方へ歩き出した時、突然激しい突風が吹いた。
有り得ない事だった。
今は夏だし、櫻が咲くわけはない。本丸に櫻の木はあったが燃えて朽ちており生きてはいなかったはずだったが、今俺の前には視界を覆いつくす激しい櫻吹雪。
白と薄紅の花弁が舞い踊り、暫く明るいのか暗いのかわからないまま立ち尽くしていると急に視界が開けた。
そこには、夢の中でずっと俺が見ていた男が一人、櫻の木の下で立ち尽くしていた。
正装した一期一振だった。その右手は彼の本体が握られており、左手には鞘を持っている。だが肩で息をしている様子はなく慌てた様子もない。ただ刀身を仕舞おうとはせず、悲しげに地面を見つめているばかり。
それを見て、ああやはり彼は俺を呼んでいたのか、と俺はぼんやりと思う。
「……俺をずっと、喚んでいたのは君かい?一期一振」
振り返る様子のない彼に声をかけると、彼が勢いよく振り返り俺は彼と視線が合った。
そのまま彼は驚いたように固まり、鞘を落してしまった。カラカラと転がった彼の鞘の動きが止まると、俺は持っていたアルミケースを持ったままゆっくりと歩き出し、それを拾い上げる。
それを持って彼の目の前まで――本当に真正面まできたら、彼は戸惑ったような表情をしていた。
「君を護る大事な鞘を簡単に捨てちゃいけないな。君の一部だろうに」
「な、ぜ、貴方が……」
鞘を差し出せば彼は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、それから鞘を持つ俺の掌に視線を移して嘆息してから、静かに鞘を受け取って言った。
「……この本丸の鶴丸殿はもう既に逝ってしまわれたのだから、貴方がそうであるわけがありませんな。私は此処にただ一人残った亡霊のようなものだ。貴方も私が邪魔だから沢山の審神者の様に私を消しにいらっしゃったのですか?」
出来るのなら、今すぐそうしてください。私はもう疲れたと言う彼にすまない、と俺は首を振る。
「俺にそんな力はないさ」
「じゃあ、何故。このような場所に貴方が?」
「君の夢を視たから、気になって、な」
そういって笑いかけると、カチャリ、と刀身を鞘に納めた一期一振は不思議そうな顔をした。
「私の夢を、貴方がご覧になったのですか」
「ああ。君がここで――炎の中で泣いている夢を視るんだ。俺はそれが、いつも切ない」
「炎の、中で……それは、そうでしょう。それがこの本丸での私の最後の記憶ですから」
それから私は此処から出られません、と言った彼は酷く悲しげだった。
だから俺は、彼に此処に来た訳を正直に言ってしまう。
「ここのところ毎日俺は君の夢を視ては泣いている。俺はこれでも忙しい身でなあ……泣き腫らした眼は仕事に支障が出た。調べたら君はこの本丸の一期一振じゃないか。会った事もない奴に泣かされるなんて最初は気分が悪くてな。早く君の夢を見るのをどうにかしようと色々やったんだが上手くいかなかった。だからこの本丸の事件を調べに来た。俺が真実でも知れば君は気が済むのかと思ってなあ」
最初はそれだけだったんだが、今は違う気持ちだとそう彼に言ってからここがどこなのかわからず視線を彷徨わせる。少し離れたところには本丸の建物が視えるが、燃えた跡はなく綺麗なままだ。
でも、彼以外の姿は見えないし気配もない。
(と、言う事は……此処はさっきまで居た本丸のどこかに造られた特殊空間か)
あの本丸から出たとは思えない。あの場を封じていた結界は強力で、俺が張り直した札で内側から封じているのだから。
此処は何処なのか、と聞こうと彼を見れば先程まで穏やかだった彼の雰囲気は一変していた。
「とても良くできた作り話ですね。そう言う甘言でも囁けば私を騙せて消せると吹き込まれたのですか?」
残念ですがそれは無駄ですよ、と言った彼は口の端を歪めて自嘲する。
「貴方の他にも……何人もの審神者が此処に来ました。皆私に同じように言いましたよ。夢を視ただの、真実を教えてくれだの、私の罪を清めるだの……弟達の名誉を回復するだの。でも、それは何ひとつその通りにならなかった」
どんなにしても私は弟達の元にも、私の目の前で逝かれた鶴丸殿の元にも行けずに此処に戻ってきて、かけられた言葉が現実にならないと知るんですと淡々と彼は言って顔を背けた。
「ここには強力な呪が掛かっていて私は出られない。私に何の用ですか?私はもう、誰も信じない」
早く帰ってください、もううんざりだと吐き捨てる彼は投げ遣りで、苛ついているようだった。
「随分な言いようだなあ。賢い君には自暴自棄が良くない事位わかりそうだと思ったが」
彼の性格にしては随分な言いようで、俺は思わずそう言ってしまうと彼は俺を睨む。
「私がそんな言葉を信じるとお思いですか。貴方も聞いてきたのでしょう?私がこの本丸で審神者を弑逆した犯人だと。そう思うのなら想っていればいい。覆らない事など知っています。でも、その姿で私を騙して利用しようとするのは――」
彼の金の双眸がいきなり赤く染まった。
「私には逆鱗です」
その言葉の強さに俺が固まればとす、と彼が動き気付かないうちに抜かれた刀に目の前を一閃され俺は体勢を崩す。虚を突かれ崩れた体勢何とか立て直そうと受け身を取るが、息をつく暇もなくすぐに彼が側まで迫って来て刀身を振り下ろして来るので俺はギリギリで身体をズラして避け、立ち上がり刀は抜かずに前屈みに構えた。
「おい、待ってくれ!俺は君を騙しに来たんじゃな」
「それをどう信じろと?こんなところに来るのは、私を利用しようと思っているか私を消したいか、のどちらかしかない。貴方にそんなつもりがなくとも、加担しているなら同じだ」
驚くほど冷たい声音でそう言う彼は容赦無く俺に彼の刀を振るう。それを反ってなんとか上半身を落とし躱すも、間に合わなかった手の甲を刀が僅かに掠めた。
ピリ、と少し痛みが走る。多分薄くだが皮膚が裂けただろう。避けるのがやっとの剣戟は速くて重い。
(強い……!)
この力量は相当だ。単騎で大太刀は倒せる俺でも、彼の実力は桁違い。
俺の様に刀の動きを理解するために振っているわけじゃなく、明らかに実戦のやり方だ。死闘をしたことがある剣技は俺とは違いすぎる強さがある。
でも、死ぬわけにはいかない。此処で俺が殺されたら、本当に彼は同族殺しにさせられる。
(動きを読め、先を予想しろ。勝てないなら生き残れ)
彼の速い太刀筋をひたすら見て、避ける。身体を跳ね上げ、飛んで後ろへ移動。追い詰めてくる彼の刀を躱してそのまま後ろに手を付く。足で刀を弾こうとするが脚を掴まれそうになってまたよける。アルミケースを盾にして後ろに退くもすぐ追い詰められる。
(俺が刀を抜く暇がないだって……?このまま倒れ込めば彼の刀に貫かれる)
太刀の中でもバランス型の俺でも、刀装3つと馬を付ければそれなりに速い。それでもギリギリの反応しかできないのは実力差が明らかな証拠である。
(アルミケースがどう考えても邪魔だ。これを持ったままじゃ確実に逃げ切れなくて死ぬ)
今死ぬわけにはいかないから俺は自衛を最優先に切り替えて、アルミケースを宙に投げた。
「!?」
それに怯んだ一期一振を見て、今が隙だと懐をすり抜けて脇を抜けようとしたが、甘かった。
反射は彼の方が早く、腕を取られて引き倒される。体を丸めて力を入れ、背中の衝撃に耐えながら反射的に刀を抜かず収めたまま鞘で太刀を防ぐ。
「私の力の方が上です。私の練度は最高値。見た所貴方は私よりずっと低い練度だ。素早さに特化して当たらなければどうとでもないという事なのでしょうが、その程度の動きで私の刀から逃れようとは。私も舐められたものですな」
怒りに燃えた赤い瞳。瘴気に充てられた刀剣男士は赤いとは聞いていたが、それを間近で見るとは思わなかったな、と場違いに思っているが形勢が不利なのは変わらない。
でも、刀を抜きたくない。
彼に刃を向ける事はしたく無くて何とか刃を押し返して脚を使う。
彼が避けた隙に、脇をすり抜けてかなり距離を取り、息を吐く。汗がつう、と背中に流れた。
「行儀が悪いですな、鶴丸殿。脚を使うとは」
酷く冷たい声音。慈悲も何もないようなそれは夢の中の彼の声とは全く違う。歩いてくる姿はまるで鬼神のようだ。
――美しくて強い、まるで神の様な。
同じ太刀でもこうも違うものか。彼は8年時が止まっていても腕は衰えていない。俺は最近降ろされているし、瘴気に当てられてもいないから理論的には瘴気に触れすぎた彼を凌げるはずなのに、押されている。
(彼は息一つ乱れていないのに、俺の方はもう限界だ。あと一回も防げるかどうか)
運良く避けられても、数回で体力が尽きて彼の刀に斬られる。どの道終わりだ。
そしてまた彼は、此処に独りきりになる。
彼の太刀からは、怒りと嘆きと、何故と言う言葉ばかりが聞こえる。きっと彼自身ですら真実がわからないのだ。覚えの無い事で犯人にさせられ、仲間に疑われ、言葉を信じても裏切られ続けた彼に俺の言葉は届かない。
(なら、どうしたらいいんだ)
このままじゃ、結局俺は彼に何も出来ないじゃないか――。
彼が近づいてくる。俺は動けない。言葉も出せずに彼を見る。彼がゆっくりと刀を振り上げようとした時に、俺は自覚無く動いていた。
――痛いと言うよりは熱かった。
俺の肺の下、横隔膜あたりを彼の刀が貫いている。刃先はきっと背中から出ている筈だ。見れば彼が驚いた顔で俺を見ていた。そうだろう。俺は彼の柄を握る右手を俺の左手で包んでいて、自分で彼の刀を身体に刺したのだから。
「心臓にしたかったんだが、此処で許してくれ。やっぱり自分で自分の心臓をなんて、上手くは運ばなかったな」
一期一振、と彼を見て笑う。固まったままの彼を右手で抱きしめ、彼の肩口に顔を乗せて囁く。
「君は間違った事はしていない。君はずっと一人で、頑張ったな」
俺は君が無実だと信じている、と言えば。
「私が……無実、だと。信じて、」
彼の肩が震え、声は震えていて。俺の肩口に彼の涙が降る。
「ああ。俺は、君が酷いことをする奴だなんて思っちゃいない。弟じゃなくったって、弟達と同じように桐の箱を贈って、笹舟を作って遊ぶ君が、誰かを害するなんて俺は思わない」
炎の中で燃える梁から動けない俺を庇ってくれた君は優しくて、格好良かったぜと言って笑う。
すると、彼の身体から力がゆっくりと抜けて肩が震えて酷く抑えた声が聞こえた。
「わたし……私は、ずっと、そう言って、欲しかった」
それから俯いたらしい彼は俺の肩に頭をつけてただ、何もしていない、私は何もしていないんです、鶴丸殿と俺を呼びながら羽織を握って唯、子供の様に泣いた。