O.飛行機雲の行く先
鳴り響く蝉の声。アスファルトが日を照り返す駅のホームに、僕は必要なのかよくわからないものをいっぱいに詰め込んだ重たいリュックを両肩に掛けて突っ立っている。
「一番線、列車が参ります。黄色い線までお下がりください」
無機質な声がそう告げ、ホームに電車が入ってくる。電車は強い風と共に僕の前を通り過ぎ、僕の前髪をボサボサにしてから徐々に速度を落として停車した。
「お乗りの方は右側のボタンを押してください」
その声を最後まで聞かずに、僕は前髪を手で梳いて整えながら、ボタンを押してドアを開け、車内に一歩を踏み出した。
「「あ」」
その日は六月にして既に真夏日で、僕は近くの、山の木々に埋もれた神社の境内に流れる川に涼を求めた。参拝に来る人は愚か散歩に来る人すらほとんどいないこの場所が僕は気に入っていた。が、その日は既に先客がいた。
「委員長じゃん。どーも」
そう言ったのは転校してきたばかりのクラスメイト、鶴丸国永だった。数日前の朝、担任がでかでかと黒板に名前を書いた。
『鶴丸国永』
「よろしくお願いしまーす」と彼は軽い口調で言ってぺこりと頭を下げた。
その彼が制服のズボンをひざのあたりまで捲り上げ、石に腰掛け、足を冷たい川に浸している。
「……どうも」
僕はどうすべきか迷った。彼と気が合うようには思えなかった。そんな彼と顔を顔を突き合わせて向かい合って座り、ただ雑談でもしながらこの川で涼を取るというのか。かといってこのまま右回れをして帰るのも、あからさまに彼を避けているようになってしまう。その迷いは彼に見えてしまったようで、「座れば?涼みに来たんだろう?」と、彼に先手を打たれてしまった。
「ここ、いいよな。子供の頃じーちゃんばーちゃん家に来た時、よくここ来てた」
彼は色白く肉付きの少ない足でぱしゃりと水を跳ねさせ、首をこくっと上に向け、気持ちがよさそうに木々に覆われた空を仰いだ。
その時、一瞬息を詰めた後、僕は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。それは、彼があまりに自由に見えて、そうしたら僕もその自由を少しくらいは取り込める気がしたから。木々と夏の匂いのするその空気は、いつもと同じ匂いなのに、初めて嗅いだような気がした。
「どうしてここへ?」
僕が問うと、彼は自分のことだというのにまるで興味もなさそうに「家のじじょー。親父の仕事のかんけー」と答えながら、また水の中で足を揺らした。
「どこから来たの?」
僕は何となく、そう訊ねた。
「んー、海があるとこ」
彼は僕の声など半分聞いていなさそうに言った。
「ここにはないだろ、海」
「……そうだね」
僕は下手な相槌を打った。
「ここが好き?」
その問いは、どうしてか、ころんと勝手に口から転げ落ちてしまったものだった。
それまでこちらに向けていた意識は半分もなかったような彼は、初めてこちらに全ての意識を向けた。そして両の目でじっと僕の目を見た。
呼吸ができなくなる。心臓の音がうるさく耳元で鳴る。
その目に、何もかも、見透かされているようだったから。
「うん、まぁ、好きだよ」
そうしてさらりとそう答えた彼が、とても眩しかった。
午前九時過ぎの電車は空いていた。
これから大学に行くのだろう大学生らしき人が数人と、窓に寄りかかり眠り込む老人が一人だけ。
僕は誰もいないボックス席を選んで、そこに座り、肩に掛けたリュックを隣に置く。電車はゆっくりと動き出し、窓の外に流れる風景がぐんぐん速度を上げていく。
ポケットからミュージックプレイヤーを取り出して、イヤホンを耳にはめる。ホールドを解除して、選択されていた曲をそのまま再生した。
『不機嫌な顔した君の――』。
イヤホンの向こう側で歌うミュージシャンの声を聞いて思い出す。
あの日、彼が転校してきたその日、用意された席に座った後、頬杖をついて窓の外を眺めながら浮かべた、退屈そうな横顔を。
「ただいま」
家へ帰ると、家政婦が「おかえりなさいませ」と丁寧に頭を下げる。
「お父様が食事をご一緒にと」
その言葉に小さくため息をつく。
「わかった。ありがとう」
家政婦にそう返して部屋へ向かう。
僕は、粟田口家の長男だ。分家はいくつもあり、兄さんもいるけど、本家筋の長男は僕だ。
だから僕は、望みもしないものを最初から与えられている。粟田口家の総領という地位を。僕には将来の夢だとか進路希望だとか、そんなものはいつでも関係なかった。僕が歩いて行く道は最初からひとつしかない。
部屋のドアを開け、鞄を机の横にかける。制服は着替えないまま、すぐに部屋を出た。
「勉強はしっかりやっているのか」
父は、食事を一口、口にするなりすぐにそう言った。
「はい」
「ならいい」
父は現在の粟田口家の総領だ。厳格な父に、分家筋の弟たちは少しも懐かず、むしろ畏怖している。
どうして食事など。話すことなどないくせに。沈黙の中に食器が立てる音以外には何もない。僕と父の食事は、親子の談笑の場などではない。早くこのテーブルの上の食事を、咀嚼して飲み込み、部屋に戻りたかった。 どうしても思い出してしまうから。そして、比べてしまうから。母が生きていた頃と、今を。
母が生きていた頃はまだ、食卓にも笑いがあり、毎日は暖かさの中にあった。母は、とても優しく、よく「父さんには内緒よ?」とお茶目に笑って、と僕と一緒に三時のおやつを食べた。
母は明るく、優しく、時々悪戯をする子どものように笑った。そんな母に、父も敵わなくて、仕方なさそうに一緒に笑っていた。
しかし、母さんは僕が小学生に上がる頃、病死した。それからは何もかもが一変した。父は笑わず、厳格になり、誰も近寄りたがらなくなった。そして、ただただ粟田口家の興隆にのみ執着し、全てを注ぎ込んでいる。
「ご馳走様でした」
手を合わせて、さっと席を立つ。
「一期」
背中を向けた僕に父が声を投げかける。
「お前はこの家の総領になる。それを忘れるなよ」
「はい」
背を向けたまま応えて、足早にドアへと向かった。
ベッドの上に身体を投げ出して仰向けになる。
――うん、まぁ、好きだよ。
そう答えた彼の澄んだ瞳を、思い出す。
僕と彼とは、不思議な仲になった。学校にいる間はお互いにさして口もきかない。だけど、待ち合わせているわけでもないのに毎日あの神社に通って、同じ時間を過ごした。どうでもいいことを話したり、ただ無言で川の水を跳ねさせたり。そんな時間がすごく、心地よかった。まるで、誰も知らない二人だけの秘密を持っているような気がした。
その日のそれは、偶然、自然な流れで、なんとなく、そうなってしまった。
「一緒に帰ろうぜ」
彼の提案に、すぐには頷けなかった。彼には、あんな家とそこに縛り付けられている自分を知られたくなかった。
僕の沈黙を肯定と受け取ったらしい彼と、夕日が沈みかけた紫色の空の下、自転車を並べて引いて坂道を下る。
「すげぇ色だな」
彼がぽつりと呟く。
「星とか見てみたいな。この辺、街灯とかも少ないし、キレーに見えそうだ」
「そうかな」
「見たことねぇの?」
うん、と短く頷くと、彼は声を張り上げて、「うわ、絶対めちゃくちゃもったいないぜ、それ」と大仰な反応をする。
「そう?」
気のない返事をする僕に、彼はもう一度、「もったいないって!」と大声を出す。
「お前は絶対ここで星を見るべきだ」
なぜ彼にそんなことを決められなければならないのか全く分からないが、彼はひとりで勝手に、うむうむと頷いていた。
「そんなに言うなら鶴丸が見ればいいと思うよ」
そう返すと、彼がハッとしてこちらを見る。
「そうか!一緒に見ればいい!!」
あと少しで夏休みに入るし、そうしたらできるな!と楽しそうに言う。
でも僕は彼が言った言葉の内容などほとんど耳に入っていなかった。彼の、ビー玉のようなきらきら光る瞳を、僕の五感の全てで、見ていたから。
僕の家の前に着いても、彼は「でかい家だなぁ、粟田口ん家は」と言っただけだった。
僕の家を知る同級生たちはこの家を見ただけでも、僕と友達になろうなんて思わなったのに。
「じゃあ、また」
「おう、またな」
手を振って自転車に跨り、小さくなっていく彼の背中が見えなくなるまで、僕は家の前に突っ立っていた。
電車はこの駅で特急待ちのため十分ほど停車すると、操縦士が告げる。まだ電車に乗って数駅。僕の行きたい場所まではまだまだだ。駅と駅との間隔がとても長く感じる。リュックの前ポケットから一枚のメモを取り出し、じっとそこに書かれた文字を見つめる。半分に破いたルーズリーフに、走り書きのように書かれた文字。一体どんなつもりなのか、何度も、何度も、考えた。でも、考えたって答えは少しも分からず、今もわからないまま。きっと、その答えを探しに、僕はこの電車に乗っているのだろうとぼんやり思う。
もしも、あの時、ちゃんと彼を見ていたら、何かわかっただろうか。
夏休みに入ると、僕と彼は相変わらずほぼ毎日神社で会い、前よりずっと多くの時間を一緒に過ごすようになった。
「なぁ粟田口」
クーラーの効いた図書館で、僕と彼は夏休みの課題をこなしていた。彼は読書感想文を書くための本を読んでいたところだ。途中、何度も音を上げたそうにため息をつきながら。
「交渉しようじゃないか」
「何?」
「粟田口、君は絵を描いたりするのは不得意なんじゃないか?」
意地悪く口の端を持ち上げてニヤニヤと笑いながら言う。
「……そうだけど。それで?」
「俺は君の分の緑化運動のポスターを描く。君は俺の分の読書感想文を書く」
「……乗るよ」
「そうこなきゃな」
彼とは一緒にいて退屈しなかった。
何より、彼は自由だった。何にも縛られず、何にも自己を制圧されたりしない。そんな彼の隣にいると、自分も自由を手にしたような気になれた。一生、自分には手に入らないと思っていたものだった。気のせいなのはわかっていた。時々、自分の立場を思い出しては、彼のことが目を覆いたくなるほど眩しくなった。それでも、僕は彼の隣にいたかった。その気のせいに、気付かないふりをしていたかった。
「なぁ、そういえばさ」
彼がシャープペンシルをクルクルと指で弄びながら言う。
「星見るって言ったよな」
「言ってたね」
僕はするとは言ってないけど。
「今夜見に行こうぜ」
「それは……」
門限を過ぎているような時間に家を出るのは憚られた。
「……今夜は曇りだよ。そもそも夏の夜は曇りが多いから星を見るのには適さないんだ」
「なんだ、そうなのか?だったらもっと早く言えよなー」
非難の声を聞き流しながら、この程度で諦めてくれて内心ほっとしていた。
あの時彼はどんな顔をしていただろう。自分のことばかり考えていた僕には、それが思い出せない。
大きな音を立てて特急が駅を通り過ぎて行き、僕の乗った電車は、またゆっくりと動き出した。
それは、夏休み最後の日だった。
僕は父に呼び出されていた。
「一期、お前は最近何をしている?毎日どこかへ出かけているらしいな」
「勉強を怠ってはいません」
「それはいい。お前はわかっているんだろうな?自分の――」
「わかっています」
どうしてか、この時は抑えがきかなかった。口から勝手に言葉が溢れていく。
「父様に言われなくても。僕は粟田口家の跡継ぎ。何度も何度もそう言われてきた。僕には選ぶ道なんかない。最初から全部決められている!」
どうしてこんなに苛立っているのか自分でもわからなかった。怒りのあまり目の前がチカチカした。怒りに任せてドアをあけ、大きな足音を立てて自分の部屋まで向かい、部屋に入り、乱暴にドアを閉めた。
諦めているはずだった。自由なんて自分にはないのだとわかっているはずで、だから自由な彼の隣にいて、自由な自分という幻想を見ていたかった。それでよかった。それ以上など望んでいなかった。それなのに、どうしてこんなに。
コツン。
部屋の窓を何かが叩く。
コツン、コツン。
また、何かが窓に当たるような音がする。
カーテンを開けても、窓の向こうには何もない。
窓を開ける。
「粟田口ー!」
ハッとする。その声の主は。
「来いよ!」
家の塀に登り、手を伸ばす彼がいた。僕は衝動に任せて窓をから出て、僕も手を伸ばした。
彼は用意がよかった。裸足のまま出てきてしまった僕のために彼のサンダルを持ってきてくれていた。
彼は悪戯に成功した子供のように心底楽しそうに、隣で腹を抱えて笑っている。
「あはははは!!やべぇ!!」
「何がそんなに……っふ、ふははは!!」
何が可笑しいのかもよくわからないけど、僕まで可笑しくなってきて、つられて笑ってしまった。
「まさか、本当に成功するとは思わなかった」
彼はまだ笑いすぎて目尻に涙を溜めたまま言った。
「付き合えよ。俺、海に行きたいんだ」
言った彼が向かった先は、近くの小学校だった。
「よっしゃ、行くぞ」
「海って、ここ…」
「ここには海ないだろ。だから、代わり」
そう言って、彼はプールを囲うフェンスをガシャガシャと登っていく。
「ほら、粟田口も来いよ」
フェンスの上から手を伸ばす彼。僕は一瞬躊躇したけど、その手を取った。
トンッとプールサイドに降り立って、すう、と息を吸い込んだ彼は、「うわー塩素の匂い!懐かしいなぁ!」とはしゃいだ。
そして。
思い切り助走をつけて、プールへ飛び込んだ。プールの水は、大きな水飛沫を上げて彼を歓迎した。
「何してるんだ……」
そう呟きながらも、僕もゾクゾクと身体の内側から込み上げるものに任せて、思い切り夜の黒い水へと飛び込んだ。
「やるじゃねーか」
ニッと彼は悪い顔をした。
バシャッ。
彼が思い切りかけてきた水をもろに飲み込んだ僕はげほげほと咽せる。仕返しに彼より盛大に水をかけてやる。
そうしてしばらく水のかけ合いをして腕が痛くなった頃、彼はふわりと水に浮かんで真っ黒な空を見た。
「本当だな。曇ってる」
僕も彼の真似をしてそうしてみる。
夏の夜の空は曇って塞いでいた。隣の彼の小指が触れる。どちらからともなく、その小指を絡ませた。
「……なぁ、一期」
彼に下の名前で呼ばれたのは初めてだった。その瞬間、ここがどこかも忘れて、世界の真ん中に二人、漂っているような気がした。
「俺、どこに行くのかな」
それが、合図になった。
絡ませた小指から、薬指、中指と指と指が絡んで、手を握った。それからプールの底に足を着いて、逆の手でお互いの足の先から触りあった。手は少しずつ上に登って、腹から胸、首筋から輪郭、耳まで、お互いに形を確かめるように触り合った。
そして、目と目が触れ合う。
彼の瞳の中には星空があった。キラキラと輝く星が無数に散りばめられていた。その目に吸い寄せられて、気が付いたら唇が触れ合っていた。触れた唇は冷え切っていて、それが温まるまで僕たちは唇を触れ合わせていた。そして彼の手が水の中でゆらゆら揺れるTシャツの中に潜り込んで、僕の背中に周り、背骨や、肩甲骨の形をなぞりながら、唇を少し開いた。僕はその唇を喰んで、彼のTシャツに手を入れ、腹の形をなぞった。へその形、腹筋、腰骨。お互い、いつの間にか下半身のものが熱を持っていて、それを擦り付けあっていた。まとわりつくズボンが邪魔で、彼の服に手を入れ、それをずらし、直接そのものに触れた。
「……ッン、」
彼の鼻を抜ける声に僕の背中からゾクゾクと何かが這い上がった。
彼の手も僕の服の中に入ってきて、それを直接触った。
「ッ……ふ、ぁ」
もう触れ合うのは唇だけではなかった。お互いに舌と舌を絡ませて、下半身を擦り合わせて、プールの水は冷たいのに、僕らの身体は異常な程熱を持っていた。
「……あわた、ぐち」
それまで一言も口をきかなかったのに、その時初めて彼は僕の名を口にした。彼の瞳の中の星空が、水膜に覆われ、歪んで揺れた。
次の日、夏休みが開けたその日。
彼の転校を担任が大したことでもないように、だるそうに告げた。
それから秋が来て、冬が過ぎ、春が終わり、夏を迎えた。そのどの季節にも彼の姿はなく、彼はまるでいなかったかのように僕の前から消えた。
それを見つけたのは、偶然だった。ロッカーに入れっぱなしにしていた国語辞典を授業で使うことになった時、授業前に僕はそれをぱらぱらと何の意味もなく捲っていた。すると、あるページにメモが挟まっていた。
『○県×町――――』
その項は、【一期一会】だった。
電車は五時間をかけて、目的地に僕を運んだ。
半分に破いたルーズリーフに書かれた住所、『○県×町――――』。
駅に降り立つと、僕の住む町とは違い、ほのかに潮の香りがした。
遠くに風力発電の白い風車が立ち並ぶ。駅から汗だくになりながら歩く。もう二十分は歩いただろうか。事前に調べてきた地図で行くと、その住所まではあと少しだ。古そうな日本家屋が立ち並ぶ路地に入る。その十字路を右に行けば――――、
『鶴丸』
見つけた。ここが、彼の家だ。
暑い中歩いてきたせいか、心臓がうるさく鳴る。ふぅ、と息を吐いて、インターホンを鳴らす。家は静かだ。中からはなんの返事もない。
「すみません」
声をかけてみるが、返事はない。もう一度、少し声を張り上げて声をかけてみたけど、やはり返事はなかった。
ここで待っていれば確実に彼に会えるだろうか。でも――。なんとなく、予感がした。
住宅地をでて海の方向へと歩く。どこにいるかなんてわからないのに確信があった。彼は、きっと。
海にでて、砂浜に沿って歩いていく。
――――見つけた。
夕陽に光る髪、たくしあげられたズボンから伸びる、肉付きの薄い足。
「やっときた」
彼は、こちらを振り向き、あの日のように、悪い悪戯に成功した子供のように、笑った。
「来いよ。秘密の場所に案内してやるよ」
彼のあとをついて行くと、岩に囲まれた、狭い、プライベートビーチのような場所に出た。
「ここ、昔から誰にも教えたことないんだぜ」
言うと彼は足首まで海に浸かったまま、僕の腕を無理矢理引くから、僕は彼を押し倒す格好になる。
「待ってた。ずっと」
彼の瞳は今は夕陽を映して、いつものように眩しかった。
「….…さよならのかわりがこれ?」
もう海に浸かってびしょびしょになった、半分に破られたルーズリーフをポケットから取り出して見せる。
「……言えなかった。今まで誰にも言ったことなかったんだ」
彼は目をそらして、無表情をつらぬいて言った。
「……どうしたらいいか、わからなかった。知らないんだ。さよならの言い方を」
あぁ、もう。彼は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
胸がいっぱいで何も言葉にならなくて、深く、口付ける。
「なぁ、最後まで、したい」
彼は、キスの合間に、苦しげにそう言った。
「やり方、知らないよ」
「俺も知らない。だから、いいよ」
――めちゃくちゃに、して。
彼は言った。
彼の中で何度も果てて、彼も私の手の中に何度も熱い精を吐き出して、お互いに疲れ切って、並んで砂浜に寝転んだ。夕陽が沈んだ、あの日のような紫色の空に、飛行機雲だけがオレンジ色に光る。
「俺、自分がどこに行くのかわかった」
突然、彼が言った。その瞬間、泣き出しそうになった。もう、これまでだ。僕はここからどこにも行けない。だけど彼は、遠くへ行ってしまう。
「あそこに行く」
彼はオレンジ色に光る飛行機雲を指差して言った。
「そんで、お前を、どこにだって連れていってやる」
「え……」
予想もしない一言に、間抜けな声を出して、それから、涙が溢れた。
翌日。
「えっ、黙って家出てきたのかよ!」
駅のホームに彼と立つ。
「っはははは!やるなぁ、一期」
「黙っていなくなった奴に言われたくないよ」
電車が、ホームに入ってくる。
「じゃあ、また」
僕は車内へ一歩を踏み出す。
「あぁ。また」
手を振って、僕らは別れた。
~10 years later~
人がごった返す空港のエントランスを、私はスーツケースを引いて歩く。ニューヨーク行きの飛行機は三時発。
トンッ。
後ろから人がぶつかる。
「失礼致しました」
パイロットの制服を着た人物が、帽子を抑え、深々と頭を下げる。
「それでは、快適な空の旅を」
落としたチケットと、一緒に手渡された、ニューヨークのホテルの名前と、時間が書かれたメモ。
私は今、粟田口のトップに立っている。ここまで来るのは決して容易い道ではなかった。だけど、彼と約束をしたから。また、私たちの行きたい場所行けたその時に、会おうと。
彼に出会えていなかったら、今の私はこんな私ではなかっただろう。全く、人生何があるかわからない。
「さて、と。」
私にはこれから、商談より大きな目的がある。
あの自由な鳥を、この腕の中に捕まえるのだ。