E.よるに、おちる
人生とは、不平等にできているのだ。
「木村さーん、いるのは分かってるんだぜ。そろそろ観念して出てきたらどうだい?」
蝉の声がうるさい。夏も終わりとはいえ、残暑厳しいこの国だ。長いこと外にいるのはできれば避けたいところである。
ドンドン、と薄っぺらいドアを叩くが中から返事が返ることはない。だが人の気配は確かにしているし、ちら、と見上げた電気メーターは留守にしては回るスピードが速い。
下手な居留守だ。やるならもっと完璧を貫けばいいのに。だがそういったことにまで気が回るようなやつが、自分たちにツケなんかしないだろう。いずれにせよツケにしたのは彼ではないのだが。
「……おい、いるのは本当に分かってんだぜ。このドアぶち壊されたくなかったらいい加減出てきやがれ」
声を低めて強めにドアを蹴った。ガツン、と鈍い音がして安っぽいアパートの木製のドアは簡単にたわむ。
ヒィッと男の情けない声がしたのはその直後で、いるみたいだね、とおっとりとついてきた同僚がつぶやいた。
「光忠、お前が行けよ」
「えー、僕は平和主義者だからとてもとても。ここは先輩に譲るよ」
ニコニコ笑う同僚――光忠は声こそのほほんとしているものの、180センチは優に超えている長身とよく鍛えている筋肉質な体を黒いスーツで隠しているせいか、とてもではないが堅気の人間には見えない。
白いスーツに身を包んでいる自分もそうなのだろうが、彼はどう見たってその界隈の人間だ。ある意味では、間違ってはいないのだが。
「どの口が言ってんだ……」
「鶴さん早く。ここ回収しないと三日月さんに笑顔でほっぺた抓られちゃうよ?」
「……ほっぺた、ねぇ」
ね? と美しい笑みを浮かべる光忠を軽く睨み、鶴丸は再度ドアをガンガンと蹴りつける。八つ当たりするにはちょうどいい。どうせ壊れたって修理代はこの客持ちだ。
「おいいるのは分かってんだぜ。いい加減ツケを払いやがれ!」
ああいやだ。こんな仕事、本当に気が滅入る。再度ドアを蹴った辺りでやめてください、とか細い泣き声がしてようやくドアが開いた。
蒼褪めた顔をした小柄な男が震えながらその先に立っている。気の毒だとは鶴丸も思うのだ。思うのだがこれが自分の仕事だ。全うさせてもらおうと思う。
「よっ、驚いたか? あんたの女がうちの店に掛け金払ってないんだ。女と連絡がつかない以上、旦那のあんたに請求させてもらうぜ」
「お、俺はもうあいつとは別居してるんだ。俺が払う義理は」
「残念だが法律上はまだ夫婦なんだろ? それにあんたの奥さん、保証人にお前さんの住所と名前書いて行ったんだ。金を払うか女の場所を吐くか、どっちか選ばせてやるから好きな方を選んでくれ」
保証人とするには、自らの意思で書面に署名捺印をしなければ相手方に責任はないことくらい百も承知だが、ここはとりあえず揺さぶりを掛けておく必要がある。
鶴丸だってこの男が金を払う義務がないことは重々承知しているし、この行為が違法であることだってよく分かっている。
だが鶴丸にも通さねばならない筋があるのだ。いわばこれは意地と意地、あるいははったり通しの駆け引きでもある。
男がちら、と背後の光忠を見た。見るからに堅気の空気でない彼の存在に怯えていることは明白なので、運が悪ければ通報される恐れもある。
だが鶴丸は知っている。自分に後ろ暗いものがある人間は警察だとか弁護士だとかそういった司法を盾に他人には頼らない。
この男は確か他の店に自分名義でいくつかの借金があるはずだ。その手の男たちに脅されたことだって何度もあることだろう。
怯えたふりをしているだけで、この男が割と強かかであることくらい鶴丸はとっくに見抜いている。
ここは引いた方が負けだ。光忠を連れてきたのは脅しのためでもある。暴対法を盾に揺さぶられれば負けるが、こういった借金を重ねるタイプの男は裏の世界の怖さも十分思い知っているはずだ。通報される恐れはない。鶴丸はそう踏んでいる。
「……どうする?」
にこ、と柔和な笑みを浮かべて見せる。こんなときほど自身の顔が有効なことは長い経験から把握済みだ。
案の定男が怯んだ。人形のようだ、と人から評されるこの顔立ちは、こんなときひどく冷たく見えるらしく、対峙している相手が男ならまず間違いなく怯む。
その隙をついて逃がさない、とばかりに薄く微笑めば男が観念したようにうなだれた。
「……あいつなら歌舞伎町のフェアリーってクラブに転籍した」
「……へぇ?」
「そこに請求してくれ。俺は払わない。その書面に効力もクソもねぇんだろ。これで勘弁してくれ」
「……あんた、スノーホワイトでもツケ重ねてるだろ」
ぎく、とした顔で男が鶴丸を見上げた。
「あそこもうちの系列店でね。どうする? そのツケもここで払うか?」
「……本当の狙いはそこかよ」
「恨むんなら借金した自分と逃げてる嫁を恨むんだな」
男は溜息をつくと、少し待っててくれとドアを閉めようとした。すかさず鶴丸は隙間に足を入れて閉めさせないようにする。好きにしてくれ、とばかりに男はそのまま部屋の奥へ行くと、ほどなくして封筒を持って戻ってきた。
「五十万だ」
差し出されたその厚みに鶴丸は目を細める。確か三日月に言われた回収額は四十九万と八千円。端数はまけてやれ、といわれていたがあいにくと釣りの用意はない。
「……二人分かい」
「ああ」
「確かに」
あるならすぐに出せばいいものを、と毒づくのはやめておく。男から封筒を受け取り鶴丸はさっさと踵を返した。
背後で恨めし気な音を立ててドアが閉まるのを聞きながら行こうぜ、と光忠の腕を引く。
「さすが鶴さんだね。今回もお疲れさま」
こんなところで褒められたって嬉しくない。こんなクソみたいな人生の、底辺みたいな仕事に反吐が出そうだ。
「……開店準備に遅れるとまたうるさいから急ぐぞ」
時刻は午後五時。眠らない街がもうすぐ、目覚める。
* * *
「鶴丸さんおはよ。掃除始めてるよ」
店についたのは午後六時を回る少し前。開店前の掃除を始めるには少し早すぎるくらいの時間だったが、すでにちらほらと出勤している者の姿があった。
「分かった」
清光にそう答え、回収してきた金をひとまず金庫に入れるべく鶴丸は事務所へ向かう。続々と出勤してきているらしい他のボーイたちの挨拶の声を流しながらポケットから鍵を取り出した。
そうだ。三日月に連絡しておかなければ後が何かと面倒だ。ここを開けたら、電話を……。
「鶴丸殿」
びくっと手が止まる。その声はまだここにいるはずのない男の声だった。
「おはようございます。精が出ますね」
振り返ることを一瞬ためらった。だがここで無視をする方が後で痛い目を見るのは自分だとよく分かっている。
諦めて振り仰げば、すかさず伸びてきた手が鶴丸の二の腕辺りを掴んだ。
「……仕事熱心でもいらっしゃる」
「……そうだな。ナンバーワンのくせに同伴が嫌いなきみに見習ってほしいくらいだな」
引き寄せられて間近に迫る金色に軽口を返して睨むと、彼が笑った。
「早く鶴丸殿にお会いしたくて駆けつけてきたのに酷い言われようですな」
「……よく言うぜ」
そのまま唇が重なって、鶴丸は目を閉じる。慣れたその唇の感触は、嫌いではないのだ。
「……鶴丸殿」
「一期、鍵を開けるからそう急くな」
「会いたかった」
至近距離で煌めくイミテーションゴールド。その色に何人の女が騙されてきたのか。
この唇の感触も、きっと知っているのは自分だけはないはずだ。悔しいとは思わなくても、どことなくちくりと胸は痛む。
「……一期、今日きみ、」
「指名客が来るのは十時ごろです。そういっておけばいいでしょう」
「……は、さすがのナンバーワン様だな」
トン、と肩を押すと一期が離れる。鶴丸は背を向けると事務所の鍵を開けた。
一期がすでに来ていることをフロアにいるボーイたちが知らないはずがない。やたらと愛想がよく、後輩の面倒見もいい彼のことだ。
ねぎらいの挨拶をしながら掃除を手伝っていたことも容易に想像がつく。
「早めに来るなら連絡くらいしてくれてもいいだろ」
中へ入り、まっすぐに金庫を目指した。すぐ後から部屋に入ってきた一期がソファーの上に座ったのを確認して、鶴丸は金庫の鍵を開けた。
一期相手とはいえ一応は店の従業員。三日月より管理を預かっている以上他者に鍵の暗証番号を見られるわけにはいかなかった。
用心しなくとも相手はこの店のナンバーワンだ。金に困っているはずもないだろうし、そんなことをするような男じゃないことくらい分かっているのだが。
「したところで来るな、というのがあなたでしょう」
「当たり前だろ。普通ならこんな時間に売れっ子のホストのきみが来るはずないんだから」
「ほら、やっぱり」
封筒を中に放り投げて再び金庫を閉める。その時を待っていたとばかりに一期が立ち上がる気配がした。そして振り返るより前に後ろから抱きしめられ、鶴丸は身を固くする。
「鶴丸殿」
囁かれた声にぎくりとしたが、もう遅い。この空間に二人になった時点で、予感はしていたのだ。そしてそれを拒絶しなかったのは自分だ。受け入れるほかにない。
「あ、」
ぐっと腕を引かれて押し倒されたのはソファー。すぐに覆いかぶさってくる一期を見上げ、言葉に詰まった。
「会いたかった」
「……一昨日も会っただろ」
「でもこうして触れるのは久しぶりです」
「……そうだったかな」
「そうですよ」
すり、と柔らかな指が頬を撫でる。金色に自分が映っているのを見るのは、好きだ。まるで一期が自分だけを好きでいてくれているような錯覚を覚えられるから。
「……鶴丸殿」
重なる唇を受け入れて、おずおずと背中に腕を回した。鍵をかけたっけ、なんてことはもう頭になくて目の前のキスに集中する。
ゆっくりと侵入してきた舌を受け入れ、奥まで引き込めば嬉しそうに一期が鶴丸を抱く腕に力を込めた。
「ん、ぅ……っ」
軽く舌を噛まれて抗議の声を上げると、あやすように今度は優しく吸われて翻弄されて行く。
ぴちゃ、と上がる濡れた音にすら煽られていくようだ。すぐに遠慮のない手が鶴丸のシャツのボタンを外し始める。
露わになった肌にまだ冷たい空気が肌寒くてぶるりと震えると、ようやく唇が離れた。
離れたそこを繋ぐ唾液の糸に知らず頬が熱くなる。何度抱き合っても、こういった空気の気恥ずかしさには慣れそうにもなかった。
「……脱がせても?」
「……するなっていってもするんだろ」
「ええ、まぁ」
呆れたように溜息をつくと、許しを得た一期の手はするするとよどみなく動く。
カチャ、とバックルを外されてやはり遠慮の欠片もない手が核心を求めて動き始めた。
「い、ち……っ」
まだ反応のない性器を柔らかく下着越しに撫でられて思わず肩を掴んだ。だがそれを宥めるように額に唇が降ってきて、やめてくれる気配は微塵もない。
すぐに下着の裾をかき分けて手が潜り込んできた。冷たいその手にビクッと背が浮く。
「っ、あ……」
「鶴丸殿……」
いつのまにか一期の腕が鶴丸の腰に回されていて、少し浮かせるように持ち上げられた。素直にそれに従うといとも簡単に下着ごと服を脱がされてしまう。
毎度のことだがその何気なさと早業にはとことん感心するというか。慣れていることにムッとするべきか。いつも分からない。
「い、ち、待って……」
「待ちません」
「うぁっ」
きゅ、と握り込まれた性器を包み込まれて上下に動かされると、制御できずに腰が逃げてしまう。許さないとばかりに引き寄せられ、反応をうかがうように一期が顔を覗き込んでくるからたまらない。
こんな時の顔をじっくり見られるのは恥ずかしいのでやめて欲しいのだが、何度抗議しても一期はそれをやめようとはしなかった。
それどころかどこかうっとりとした顔で見つめてくるのだから、何も言えなくなってしまう自分もどこかおかしいのかもしれないが。
「あ、あ、いち……っ……!」
何度も抱き合った体だ。弱い部分なんか全部知られている。くびれの部分を撫でられ、先端部分に爪を立てられるともうだめだ。
呆気なく背を丸めて一期の腕を震える手でつかむ鶴丸を見て、彼が嬉しそうに頬にキスをくれる。
「……気持ちいいですか?」
普段は女に愛を囁く声が、今は鶴丸のために囁いている。それは不思議な優越感と、たまらない虚しさを鶴丸につれてくる。
自然と潤む目で一期を見上げた。じっとこちらを見下ろしている一期は、笑みを浮かべているのにその瞳には獰猛な光が宿りつつあった。
その目を見るのが、好き。だけどそれを知ってるのはきっと。
「……きもち、いい……」
はぁ、と震える吐息を吐き出して呟いた。ちゅ、と頬にキスをされて目を閉じるともう一度唇を塞がれる。
それでいて性器をなぶる手は止まらないので、腹の奥底から湧き上がる快楽に逆らえない。
いつしかぐちゅぐちゅと聞くに堪えない音が聞こえてきていて、自分の零した先走りが一期のあの綺麗な手を汚しているのだと思うとゾクゾクした。
「は、あ……っ」
「……いいですよ、お先にどうぞ」
「っ、ふざ……っ、うぅっ……っ!」
ぐり、と先端に再び指が沈み、背中を快楽が駆け上がっていく。震えながら鶴丸は一期にしがみつくしかもう、できなかった。
「あ、あ、やっ……イッ……!」
「……イッてください」
「――ッ!」
ぐりぐりと先端に沈んだ指が最後を促すようにそこを撫でるから、こらえきれずに背中が浮き、一期の手の中に精液を吐き出してしまった。
頭の芯までしびれさせていくような鋭い快楽が抜けない。はく、と酸素を求めて唇がわなないて、飲み込み切れなかった唾液が口元を伝って落ちて行った。
「ぁ……っ」
「可愛い、鶴丸殿……」
囁かれて体が震える。耳元で聞くこの声には、ひどく弱い。ずくん、と疼くのは腹の奥だ。もっと熱いもので埋めて欲しくて、ひどく奥が疼く。
自然と腰が揺れ、足を摺り寄せるようにして閉じると、くすっと笑う声が聞こえて頬が熱くなるのが分かった。
「待って、という割に腰が揺れておりますが?」
「……っ、いじわる……!」
「気持ちよかったでしょう?」
ちゅ、と頬にキスをされて鶴丸は目をそらした。頷くのも肯定するのも今更だと分かっていても、恥ずかしい。
「……ですが時間切れですね。携帯が震えております」
「……は?」
「はい、どうぞ」
にっこりと一期が微笑み、机の上に置き去りの携帯を投げて寄越してくる。
信じられん。
呆然とするが、ディスプレイに浮かぶ名前を見て思わず眉を寄せてしまった。なるほど。確かにこれは時間切れだ。
「……はい」
『鶴、報告がまだなのだが』
「……三日月」
『回収は済んだのだろうな』
ひどくのんびりとしたその声。だがその裏に潜む何かを感じ取れないほど鶴丸も愚かではない。
恨みがましく一期を睨み、息を一つ吸った。
「した。五十万ある。端数はいいと言っていたが釣りがなくてそのままもらってきた」
『優秀な回収屋で助かるな。して? 女は?』
「歌舞伎町のクラブにいるらしいぜ。今度光忠と廣光をやる。それでいいだろ」
『上々だな。後で小狐丸に寄らせる。鍵は持たせるゆえそこにあるものは鶴が持っていろ。後はうちで聞こう。落ち着いたら来い』
舌打ちの一つでもしてしまいたいが、ここで機嫌を損ねて痛い目を見るのは自分だ。楽し気にこちらを見ている一期をねめつけ、鶴丸は溜息をついた。
「……分かった。店が落ち着いたら行く」
『待っているぞ。いい酒がある』
「はいはい。ったく、自分の都合のいい時だけ呼ぶなよ」
『ははは。可愛い鶴の顔が見たいのでなぁ』
「……よく言うぜ」
ではな、と一方的に電話が切れた。溺愛されるのも重たいものがあるが、悪い気がしないのが厄介なところだ。
「……呼び出しですか」
「ああ。きみが余計なことをするから一回シャワーを浴びないと……」
「おや、ノリノリだったのは鶴丸殿でしょう?」
「うるさい! そら、きみも支度しろ。俺はもう行く」
乱れた衣服を整え、上にある従業員用の居室兼事務所へ行くべく鶴丸はドアに手を掛けた。
だがふと思い立って、一度振り向いてみる。
その視線受け、一期がにこりと微笑んだ。
「……うさんくさいな、相変わらず」
「そうですか?」
「……もういい。ちゃんと仕事しろよ」
「言われなくても。ナンバーワンの名は伊達ではありませんから」
午後七時に店はいつも通りに開店した。
冷たいシャワーを浴び、何とか腹の奥に居座る疼きを鎮めたが、何となくまだ落ち着かない。そわそわした気持ちのまま 続々と来店する客に愛想を振りまきながらも鶴丸は心の中でこっそりと溜息をつく。
珍しく、開店時間から出勤しているナンバーワン様にはすでにひっきりなしに客がついていた。
普段通りであれば予約客でいっぱいで、この時間から一期が店にいること自体が少ないため、予約にあぶれた客が彼に群がるのは当然のことだろう。涼しい顔で接客をする一期に冷ややかな視線を向けながら、鶴丸はこっそりと溜息をついた。
「色っぽい溜息だね」
「……光忠」
いつの間にか背後に、光忠がいた。この店のナンバーツーだ。先ほどの取り立て時とは全く違う、品のいい仕立てのスーツを着込み、甘い笑みを浮かべて立っている。
相変わらずの色男ぶりだ。ナンバーツーを張るだけはある。
見られていることをきちんと知っているその佇まいは、さすがといおうか、何といおうか。
「誘ってる顔してるよ」
「……ほっとけ。それより客は?」
「遅刻するんだって。駅まで迎えに行こうかと思って許可を貰いに来たんだけど、こんな顔の主任様が見れるとはねぇ」
「その呼び方はやめろ。許可出すからとっとと行け」
「何? 一期さん絡み?」
「……関係ない」
からかうように光忠が笑う。お互い子供のころから知っている顔だ。今更澄ました顔で取り繕うものも何もないし、性癖だって全て露見している。
楽な間柄ではあるが、やりにくさも、当然あるわけで。
「だって凄い色気のあるお顔だよ。みんながちらちら気にしてるの分かってる?」
突如ぐいっと腰を引かれ、驚く間もなく光忠に抱き寄せられた。間近に迫る色男の顔が意地の悪い笑みを浮かべている。
ひく、と頬が引き攣る。だがその反応ですら愉快そうに光忠が見下ろしていた。
「あはは、鶴さんかーわいい。惜しいなぁ。僕がバイだったらよかったんだけど」
「……お前……」
「鶴さんなら抱けそうなんだけど、慰めてあげよっか?」
きゃあ、と二人の姿を見たらしい客が黄色い悲鳴を上げた。その声を聴いて鶴丸は我に返る。
そうだ、ここは店だ。可愛くない顔をしていたら台無しになってしまう。一応鶴丸だって、ボーイとはいえここのキャストなのだ。一瞬だって気を抜いてはいけない。
「……今度な、光坊。今は我慢してくれ」
出来るだけ妖艶に見えるよう、薄い笑みを唇に乗せ、今すぐにでも振り払いたいのを我慢して光忠の頬を撫でてやる。
僅かに見開かれた金色。だがすぐに光忠も笑みを浮かべた。
「仕方ないなぁ……それじゃあまた今度ね」
光忠が体を離し、代わりに鶴丸の手を取った。何を、と問う前に素早くその手の甲にキスが降る。
……ぶわっと鳥肌が立ったのは、ここだけの話で。
「じゃあね」
「……後で覚えてろよ」
ひらりと手を振って光忠が入口の方へ去って行く。きゃあきゃあいっている客に気付かれないように、出来るだけ色気のある笑みを振りまきながらこっそり手の甲をごしごしと拭った。
最悪だ。何を考えてるんだやつは。
ふと、鋭い視線を感じて背中にぞくりと寒気が這い上がる。何事だ、と振り返って……後悔した。
(……ちっ、見られた、か……)
――一期だ。
ちょうど、こちらの方を向いて座っていたらしい。運が悪い。
客に爽やかな笑みを向けていたくせに、ぎろりとこちらを睨む金色に不機嫌なオーラが漂っている。
その視線はまるで刃みたいだ。鶴丸の体と心を切り裂く、憤怒の鋭い刃。
鶴丸にしか分からないその怒りの瞳に、知れずごくりと喉が鳴る。大体、こういった場面を見たあとは酷い目に遭うのだ。
例えば泣いて許しを乞うてもイかせてもらえなかったり、あるいは何度も絶頂させられても許してもらえなかったり、時にはローターを仕込まれたまま接客に放り出されたことも数知れず。
怒らせない方がいいのは分かっている。分かっているが、一期と付き合うようになって自分の中の何かが目覚めつつあるのか、最悪なことにその責めが嫌じゃないのが、心底いやだ。
今だって中途半端に煽られた熱がまたくすぶりだし始めている。
何度も、何度も教え込まれたあの快楽。
泣いて泣き叫んで許してもらえなくても、心を満たしていく征服されたい、という狂った願望。
ひどくされればされるほど、興奮するこの性癖が、憎い。
(……っ、くそ……っ)
ずきずきと痛む体の中心を抑え込むように視線を逸らす。
体だけの、関係だ。
一期の好きな時にいじくられ、泣かされ、満たされて。
利害は一致していると思う。とても。だけど、歪んでいるこの関係を正しいものにしようなんていう気はお互いに、ないのだ。
視線をそらし、振り切るようにバックルームへ急ぐ。
そろそろ三日月の元へ行かねばならない。こちらもこちらで機嫌を損ねてしまうと最悪なことになりかねないのだ。
「あと、頼む」
「りょーかい」
清光の肩を叩き、鶴丸は深いため息をつきながらバックルームのドアを開けた。
「……遅かったな」
「忙しかったんだ。一期のやつ、オープンから出勤しやがって」
「一期がか?」
「ああ。おかげで大忙しだ。文句はあいつに言ってくれ」
時刻は深夜を回っていた。
ようやくやってきた鶴丸を出迎えた三日月は怒ってこそいなかったが、どこか愉快そうな顔をしているのが気になる。
大体、こういう顔をしているときの三日月がろくなことを考えていないことくらい、手に取るように分かるのがまた腹立たしい。
「まぁいい……。飲むか?」
「もらう」
グラスが二つ出され、上機嫌で三日月がワインボトルをガラステーブルの上に置く。
相変わらず生活感のない部屋だ。ものが極端に少なく、必要最低限の家具しかない。このテーブルだって、見かねた鶴丸が見繕ってやったもののうちの一つだった。
「……きみは執着心がなさすぎだな」
「物にはな」
「……そうかい」
貰い物なのか、あるいは買い求めてきたのか。血のように赤い液体がグラスを満たしていくのをぼんやりと眺める。
……いつまで、こんな生活を続ければいいのだろう。
三日月の下にいるのは楽だ。気兼ねもないし、流されるままに生きていれば多分、何不自由なく暮らしていけるのだとは、思う。
でもそこに自分の意思はあるのだろうか? 夢は? 希望は?
たまに、ただ息をしているだけの人形になっているような気さえしてしまう。
もっと心が躍るような、ワクワクするような、何か驚きに満ちた何かが欲しくなる。
こんなごろつきまがいの仕事じゃなくて、もっと何か……。
「鶴」
「……ん?」
「一期とは親しいようだが」
「……何だ急に」
「あまりヤツとは関わらぬ方がよいぞ。あやつ、粟田口の関係者だ」
差し出されたグラスを受け取る。三日月は微笑んでいるが、その笑みはおそらく作ったものだろうことは容易に想像がついた。
「知ってるぜ」
「……まったく。俺の可愛い鶴が傷ものにされた礼はしてやらんとなぁ」
カツン、とグラス同士をぶつけあい、無言の乾杯をかわした。三日月の言い分が果たして本音か、戯言か。残念なことに今の鶴丸には分かりかねた。
「……何言ってんだ」
「まぁ粟田口の親父殿とは親しいのでな。嫁にくれてやってもよいのだが、東の三条と西の粟田口の架け橋にするにはいささか気が病むのだよ、鶴」
三日月の瞳の中で、欠けた月が揺れる。
それが怒りなのか、嫉妬なのか、あるいは惜別なのか。相変わらず真意が読めない男だと、鶴丸はひそやかに息を吐く。
「だからそんな関係じゃないんだ、俺たちは」
体の相性がいいだけの、セックスフレンド。いや、もしくは利害関係が一致しているだけの都合のいい関係。
そこに愛だの恋だの青臭いものはなにもなくて、快楽を貪り合うだけの、泥の海で泳ぐような湿った関係の方が近いのかもしれない。
人には言えない性癖を秘め、情などないからこそ全てをさらけ出せる、ある意味で生々しいだけの、縺れ。
絡まった糸はほどけることなく、抱き合うたびにどんどんと縺れていき、どちらかが断ち切ることでしかきっと終わることがないのだと思う。
こんなはずじゃなかった。
そう思っているのは多分、鶴丸だけじゃない。
「鶴や」
「ん?」
「俺はお前を愛している」
「……何だよ急に」
「お前はうつくしい。大切に育ててきた大事な弟だ。あんな馬の骨にくれてやるのは、心底腹が立つ」
思わず顔が引き攣るが、三日月は至極真面目な顔で、ん? と首を傾げた。
「……いや、きみ……そんな恥ずかしげもなく……」
「粟田口にくれてやるなら俺が無理やり自分のものにしてもよいが」
「は?」
「あいにくと肉親に欲情するような性癖は持ち合わせがないのでな……俺にとってお前はいつまでも可愛い雛だからなぁ」
ははは、と笑う三日月に脱力した。まったく、この溺愛されぶりもいかがなものかと思うが、……悪い気はしない。
「血は繋がっておらずとも、おぬしは俺の大切な家族だ。……心配していることは分かってくれるな?」
つ、と三日月が鶴丸の首筋を指さす。反射的にそこを押さえると、ふふ、と彼がまた笑んだ。
「近頃、西の動きがきな臭い」
「…………」
「お前を使ってこちらを探るようなことがあれば、容赦はしないつもりだ」
「……一期はそんなこと、考えてなさそうだが」
脳裏に浮かぶ、あの綺麗な横顔。自分を抱く、真剣な男の顔。……だめだ、また頬が熱くなりそうだ。
そもそも彼が本当に三日月の言う「粟田口」と深い関係があるようには思えないのだ。
そんなそぶりもなければ、二人きりで会うときにも彼は弟たちが11人いて、とかそんなほのぼのとした話しかしてくれない。
……だが確かに、彼がどこで生まれ、どこで育ち、そして何を思ってこの東京へ出てきたかは、思えば何も知らないのだった。
「もう少し調べを進めるが監視は続けてくれ。頼むぞ」
「分かった」
「それと、」
ぐっと三日月が鶴丸の腕を引いた。
「せいぜい、深みにハマらんように気を付けるんだな」
残暑厳しい夏の夜は、昼の名残の熱気がまとわりつくように肌を撫でる。大通りで拾ったタクシーに乗り込み、一期のマンションの住所を告げた。
時刻は深夜二時。店はまだ当然営業時間内だ。だが得意客に仕舞をつけさせた一期はとっくに帰宅している。接客責任者でもある鶴丸に何も告げずに消えるのはいつものことだ。
それでもしっかりと売り上げを上げ、アフターにも多少付き合った痕跡を残して行く辺り、本当に抜け目のない男だ。
流れていく景色を見つめながら、溜息をつく。
脳裏に浮かぶ、意地の悪い笑みを浮かべた一期の顔。一度つけられた欲の火が、ちろちろと腹の奥底でくすぶっている。
……この炎を消せるのは、一期だけだ。
自分の手で慰めるだけでは、到底満足できない。泣き叫ぶほど手ひどく抱かれてやっと、この欲は満たされる。
作り変えられてしまった。
その自覚は、ある。いやというほど。それがひどく悔しい。
「お客さん、ここでいいかい」
呼びかけられて我に返ると、そこは見慣れたマンションの前だった。
「近いのに悪かったな」
「いやいや、仕事だからね」
「釣りは結構」
財布から一枚札を抜き、トレイの上に置く。そのまま鶴丸はタクシーを降りた。
「いいのかい?」
「ああ。じゃあ」
ありがとう、と嬉しそうな運転手の声を背にして、歩き出す。鍵ならとっくの昔にポケットの中だ。以前無理やり押し込まれて以来返しそびれたそれは、ずっとそれ以降正しい役割を果たし続けている。
オートロックを解除し、エントランスからエレベーターへ。19階の角部屋が、一期の部屋だ。
勝手知ったるとばかりに鍵を開け、挨拶もなく部屋へ上がり込む。……リビングの方は明るい。
「……勝手に帰るな、と何度言えばきみは理解するんだ?」
部屋の中央に置かれたソファーの上で、一期が座っている。すっかりくつろいだその様子に、呆れかえってしまった。
「気分が悪いと言ったら、常連客が仕舞までつけてくれましたが、何か不満でも?」
にっこりと一期が微笑んだ。ひく、と頬が引き攣る。
「きみは本当に底意地が悪いな」
「鶴丸殿には負けます」
手招きされて、いやいや側へ寄った。
こんな時間に呼び出される目的など、明白すぎて改めて問い掛ける気にもなれない。
おそらく彼は怒っているのだ。
光忠と距離が近いことを前々からちくちくと言われていて、そのたびにあれとはそんなんじゃない、と流していても聞いてくれない。
一期は、鶴丸にだけひどい執着を見せるのだ。
この関係は、何なのだろう。ずっと考えていても、答えが出ない。セックスフレンド、なんて関係の中には決してありえないはずの粘着質な糸にからめ捕られて呼吸ができない。
いつかその蜘蛛の糸の上でそのまま食べられてしまうんじゃないかといった恐怖すら覚える。
怖いのは、彼がそれに無自覚であること。無邪気な束縛ほど恐ろしいものはない。
「鶴丸殿」
腕を引かれ、ソファーの上に押し倒された。圧し掛かってくる体を見上げ、欲に濡れた目に絡め取られて、息が出来なくなった。
先ほど中途半端に放り出されたせいで体には簡単に火が点る。潤んだ目で見上げた先で、一期はうれしそうに笑っていた。
「……っ、あ……」
ずるい。そんな顔。
「……熱い」
シャツの裾から滑り込む手が、肌を撫でる。同じくらい一期の手だって、熱い。
「あ、せくさいぜ、きっと」
「鶴丸殿の匂い、私は好きですよ」
雄の顔をした一期が笑う。
――その瞳に、いつから絡め取られたいたんだろう。
こんなはずじゃなかった、を何度となく繰り返し、それでも懲りずにこの腕の中に捕らわれてしまう。
「……抱いてくれ、一期」
壊してくれたっていい。そう思うくらいにはもう戻れないところまで来ているのだ。
唇をなぞる指に、歯を立てた。