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D.beautiful dreamer

 予定は未定であり決定ではない。とは良く言ったものだ。こんなはずではなかった。
 大学生の夏休みと言えば、まさに“腐るほど”時間があるものだ。勉強に集中するも良し、アルバイトに勤しむも良し、ただひたすらに惰眠を貪り、無駄に消費するも良し。人生最長と言っても過言ではない自由時間。
 粟田口一期は人生二度目のこの長期休暇の一部を、気ままな行楽に使う予定だった。
 一年目の終わり、春の休暇に、二輪免許を取り、夏前にようやく中古のバイクを手に入れた。行動範囲が一気に拡大したのだ。遠出をして、山でも海でも観光名所でも、どこかへふらっと遊びに行ける。だから、夏季休暇に入った初日の、その日、早速、ガソリンが満タンなのを確認して軽快に走り出したのである。
 低速だったのと、誰かを巻き込まなかったのは不幸中の幸い。
 とは、後に逢った友人談。
 免許を取得してから数か月乗りもせずにいたところ。未熟な己には、遠出は無茶だったらしい。まだ若いから何とでもなる、等と言う信仰には今後は気を付けねばならないだろう。不安定な運転技術で、不慣れな道を走り、工事途中の道路の段差にてハンドル操作を誤った。そのまま転倒し、混乱の中で受け身をとったつもりが、反射的には地面に向かって手を突き出していたのか、派手に左腕を骨折した。ヘルメットは装着していたが強く頭を打ってしまった。事故直後の記憶は、一期にはないが、工事現場から駆け付けた目撃者曰く、声を掛けたらむくりと起き上がって、舌足らずに、だいじょうぶです、とだけ繰り返していたらしいから、ぞっとする。
 頭の所為でとりあえず一晩、搬送先の病院へ入院することになった。親代わりの叔父に連絡すれば、大変無口な男のはずが、軽率な一期に対する怒りと心配をはっきり送られた。
 夕方になると意識もはっきりしてきて、体があちこち痛んだ。ただ、ぼんやりベッドに横たわったままと言うのも退屈で、新聞でも小説でも、何でも良いから暇をつぶせる道具が欲しくなってくる。否、単なる暇つぶしのためだけではなく、自分自身が正気であると認識できる手慰みとしても何かが欲しいのだ。頭を打った直後の妙な言動を証言されたら、ぼぅっと惚けたまま時間を経過させるのが怖い。
 脚の方は擦り傷がやや広範囲で、ひどいところについては数針縫う傷だと聞いた。そぅっとベッドから降り立ってみる。しっかりと包帯で固定されているおかげか、想像したほどの苦痛はなく、歩けそうだ。売店までは行ってこられよう。
 財布だけ掴み、廊下の途中の案内図や掲示を見て、向かう。途中、道を間違えて曲がったら、突き当りの窓から赤い夕陽が差し込んで、ぞわりと足がすくんだ。
 病院と言う場所の持つ、独特な清潔感と不穏な気配に、朱色が差している。夕方は逢魔が時。
 すぐ引き返せば良かった。窓際に見えた人影を、つい、見つめてしまった。
「きみ、綺麗な髪色してるなあ! 海……違うな、空のような色だ」
 尤も、今は真っ赤だが。
 夕日に染まった人物は独り言を垂れ流し、それだけでなく、ゆっくりと近づいてくる。廊下の灯りの真下に来ると、その人物が異様なほど白いのに気付く。白銀の髪と、眉、睫毛。肌は透き通って白磁器のようだし、唇の色も薄く、寝間着のような服にも柄は一切ない。彫刻のような美しさだった。性別さえも曖昧な容姿である。ぐっと顔を近づけられた時の吐息と熱を感じなければ、人間ではないモノだ、と怯え切って、腰を抜かしていたかもしれない。
「……じゃ、あなたは雲でしょうか……」
「あははっ、うん、なかなか良い返しだ。そういうのは好きだぜ、ありがとう」
 笑い声を聞いたら存外低かった。性別は男なようだ。言葉も通じて、ホッとする。ただ、“好き”等と言う単語が出ると、どきりと心臓が跳ねて居心地が悪い。それほどまでに、人を惑わす怪しげな美麗さを持った青年だった。
「俺は五条鶴丸だ。きみは?」
「あ……粟田口です」
「下の名前は?」
「……一期」
「いちご。へぇ、漢字はどう書く、漢数字の“一”に……」
「期間や期限の“期”……一期一会の一期です」
 説明するときはいつも同じ四字熟語を出す。歴史好きの名づけ主、両親曰く、有名な刀の名からとったらしいが、一般人はそれを紹介しても知らないからだ。
 鶴丸は、そうかそうか良い名前だな、とひとりで納得していた。それから、一期に退院予定日を問う。先ほどから質問されるばかりである。自由な発言権のないサウンドノベルゲームを連想させた。
「明日か明後日でしょうか」
「なんだ、長居はしない予定なのか……じゃあ、もうきみには会えないかな」
「……ぁ、いえ! 腕の……腕の包帯を取り替えたり、脚の抜糸とか、また、来ます」
「ほう? なら、会いに来てくれ」
 しゅんと眉の下がった、憂いを帯びた麗しさと言うのは、卑怯だ。勝手に口から言葉が飛び出してくる。
 内容には、自分のほうが驚いた。しかし、嘘はついていない。幸か不幸か、事故現場は一期が思うほど自宅からの距離はなく、ここは近所で最も大きい病院だから、そのまま通うことになるだろうと思っていたのだ。
 鶴丸は華を散らして喜んでいる。心臓が再びきゅぅと疼いた。骨折した腕の、重く硬いギブスで抑えつけておく。
「しかし、腕に脚に、どうしたって言うんだ。自殺未遂かい?」
「えっ、いや、事故です、交通事故! まあ、バイクに乗ってて……ひとりで転倒しただけの小規模な事故ですが……」
 それくらいで済んで良かったな、とか、自爆だなんて間抜けだな、とか。その手のよくある返しが来るのを身構えて苦笑して見せたが、事故、と言ったら興味が失せたらしい。つまらなそうに鼻を鳴らして、一期の腕の、包帯の流れなどを目で追っているのがわかる。
 嘘をついて彼に合わせるのが正解だったのだろうか。選択肢を間違えた瞬間を見ている気分だ。
 今さら嘘の“訂正"をしても仕方がない。今度は鶴丸に話を聞く。病気かと問えば、曖昧に首を傾げられた。
「もうずっと、長いこと、ここに缶詰生活だな」
 どこか俗世離れした印象を受ける所以か。触れてはいけないことだったかもしれない。先ほどからどうにも不正解ばかり引いている。別の話題を探ろうとして彼から視線を逸らすけれど、病院内の廊下、しかも突き当たりなど、ポスターの掲示もなかった。
「嗚呼……そろそろ部屋に戻らないと不味い……一期、また会おう」
 一方的に部屋番号を告げられ、まるで友人との別れ際のような軽い調子で手を振られた。振り返すために挙げた手には財布を握っていて、売店に行く予定だったのを思い出した。

 

 

 

 

 東病棟の三○一号室。鶴丸から教えられた、彼の病室だ。
 医師曰く骨折時の包帯はできれば毎日交換すべきものらしい。確かに、何日も同じ包帯のまま過ごすのは衛生的ではない。特に今は夏場だから、汗もかく。だが、ひとり暮らしの一期には自力での交換は不可能だし、保護者代わりの叔父には仕事がある。夏休みだから実家に帰って弟に手伝ってもらうというのも手だったけれど、ギプス交換や脚の抜糸のためにまたこの病院に戻ってこなくてはいけないと思えば現実的でなかった。そもそも、緩すぎても強すぎてもいけない適度な巻き方など、無理に弟たちに手伝ってもらうより専門家に任せるのが一番だ。したがって、二日に一度、この病院に通って交換を頼むのである。
 結局あの後、入院は一晩だけで済んで、翌日、包帯を交換してもらい、病院を出た。それから一日経っての訪問になる。場所だけ聞いて時間は聞かなかったが、彼は在室だろうか。
「鶴丸さん、失礼します」
 ノックと一声。開けてみれば、ずいぶんと豪華な個室だった。ソファに薄型テレビ、着替えや荷物を入れるための戸棚。奥には洗面台があって、トイレや風呂もついているようだ。直接的か間接的かは知らないが、院長と知り合いで、特別待遇らしい。
「本当は別にこんなことしなくて良いはずなんだがな。まぁ、おかげできみと二人きりだ」
 点滴に繋がれているわけでもない彼は、室内をうろついてから二人掛け用のソファに腰を下ろし、手招きする。夕陽の中で見なくとも、真っ白な彼は幻想的で、浮世離れしていた。隣に座って、半月を描く薄桜の唇に見惚れる。
「一期、きみはこんな話を聞いたことはあるかい?」
 まずは小さな男の子の話。病をモンスターに見立て妄想の中で倒すことで、実際に完治したのだという。二つ目は、薬を絶った男の話だった。自由気ままなストレスフリーの生活をしたことによって難病が治ったらしい。
 どちらも聞き覚えはなかったが、後者の話については頑なに投薬を拒む患者がいることを考えればこういう例が神話のようにどこかで語り継がれているのだろうとは思った。
「良いよなあ。人間の体ってのは、不思議なもんだ」
 見つめる先には窓があって、真夏の晴天が広がっている。今日は雲ひとつないのだが、鶴丸はそこに雲を描いているかのようだった。
 長期の入院ということは、不治の病だとか、難病なのかもしれない。
「なあ一期、次はいつ頃来る? そのうち、また包帯を変えにくるんだろう?」
「……明後日には、また来ますよ」
「そうか……じゃあ、また来てくれ。明後日は、ずっとここで待ってる」
 さりげなく、包帯のない右手を引かれ、立ち上がった彼に出口の方へ誘導された。本当は一期が想像するより重篤で、頻繁に検診時間がやってくるのかもしれない。元々、入院患者の部屋に長居する予定もなかったので素直に従うことにする。今回は、言われた通りの部屋で会えるかどうかも半信半疑だったために手ぶらで来たけれど、次は何か見舞いの品でも抱えて来ようか。
 果物か、花か。想像しながらドアを開けて、出ていく。が、直前に、くんっ、とシャツの裾を引かれた。振り向けば、唇に柔らかな感触。薬品と微かな汗の混ざった香りが頬を撫で、視界の大半は薄暗く、端は白い。唇への接触が消え、光が差し込んで、ようやくその白さが彼の髪によるものだと判明した。
「え……」
「楽しみに待ってる」
 肩を押されて思わずよろけ下がる。ドアは目の前で閉じられた。
 指先で唇を撫でる。これは先ほどと違う。つまり、あの柔らかな接触の正体は、指ではなかった。
 口付けだ。キスである。顔を、あれほど近づけられていたのだから。
 慌ててドアを開けようと手を掛けるが、開かなかった。たぶん、中で鶴丸が押さえている。病院だから大声は出せないし、戸を叩くわけにも行かない。せめてもの抗議代わりに盛大な溜息を落としてみるけれど、硬く分厚いドアに跳ね返って虚しいだけだった。
 鶴丸は確かに美しい外見をしているけれど、男だ。声の低さや口調、背丈、触れられた手の骨ばった形。どうしても、男である。
 だが、心臓は忙しなく跳ねまわって息苦しい。病人故の儚さのヴェールが追加されているせいだとは思う。同性愛に興味はないのだ。例えば今、廊下の向こうを横切ったナース。キスされるなら、ああいう、朗らかな女性が良かった。

 

 

 

 

 楽しみにしている、と言ってのけたのだから、一期とまた会うつもりなのだろう。むしろ、そうであってもらわねば困る。問い質さねば気が済まない。
 一日置いて、包帯をまた取り替えてもらった。見舞いの品を買うつもりだったが、あの謎の接吻を思い出すと、礼儀やら親切心やらの前に心臓がざわつき、とても彼のために金を出す余裕は持てなかった。よって、本日も手ぶらである。
 二度目の、東棟三○一号室。ノックをして、声を掛けながらスライドさせる。
 本日の鶴丸はベッドの上で膝を抱えていた。窓にかかるカーテンは、なぜか閉まっている。一度目の訪問より閉鎖的で窮屈な印象を受けた。
「やぁ、一期。来てくれたんだな」
「……ええ。あの、鶴丸さん、この前は、どうして、」
「気になるなら、ちょっとこっちに座れよ。脚の怪我、まだ完治してないんだろ」
 縫うほどの怪我と言っても、関節部分にはかかっていないし、そろそろ抜糸できる。立ったままで問題はなかった。
 しかし病人からの気遣いを無駄にするのも躊躇われて、ソファの方へ向かう。あと一歩のところで、こっち、と呼び止められてベッドの端を叩かれた。鶴丸は、一期が傍に座らねば何も語る気が無いようだ。
 肩に引っ掛けてきた鞄はベッド脇へやって、腰を下ろしながら溜息をひとつ。
「……それで、どうし、てっ?」
「ん?」
 改めての問いは驚きに飲まれて消える。後ろから抱き付かれた。とはいえ、骨折した腕に体重がかからぬよう、肩と腹に手を回されているだけの、嫌に器用な接触だったが。
「な、なんですかっ、ひっ」
 白くて細い腕の骨張って長い指先が、シャツの上からズボンのゴムをなぞった。片手ではベルトが上手く外せないから、骨折してからは毎日、着脱が容易なスウェットかジャージである。くすぐったさに身をよじると、シャツの裾から手が侵入してきて、ゴムを押し退け、するりと股間を撫でられる。今は恋人も居ないし、泌尿器科の世話になる病気もない一期にとって、他人に触れられる機会などめったにない場所だ。
 下着越しとはいえ、背筋が震え、混乱する。それから、ワンテンポ遅れて頬や耳、首元が熱く火照ってきた。冷房の微風が肌を掠めると異様に涼しくて、汗ばみはじめたのが分かる。
「へ、変態ですか、こんなことして」
「そうかもしれん。……夢を、見たんだ」
「……ゆめ?」
「そう。きみに抱かれる夢を見た」
 ぐいと襟を引かれ、息苦しさに意識をとられれば踏ん張る力が足りず、ベッドに引き倒された。ギプスの付いた重い片腕が邪魔でまごつくうちに跨られる。自由な右も拘束されてしまった。白い天井に、白い彼の、唯一目立つ金の目と、薄桃の唇が浮かんでいる。
「眠る度に同じ夢を見た。ばかみたいだろ。でも、身体がふわふわ楽になるような気持ちの良い、開放的な夢だった。だから、本当にきみに抱かれたら、ここから出られるんじゃないかと思って」
 一期が問わなかったから、彼の詳しい病名や病状は知らない。けれど、藁にも縋るような憂う色をして見下ろされたら、暴れてでも逃げ出そうという気にはならなかった。
「俺が勝手にするから、きみは目を閉じて、好みの女のことでも考えててくれればいい。……まぁ、どう努力しても女のほうが具合が良いだろうが、そこはなんとか想像力で補ってくれ、すまない」
 両目が掌で覆われて、暗くなる。抵抗する様子がないためか、腕の拘束は解けた。視界が遮られたまま、シャツを捲り上げられる。
「そ、んなのは、嫌です……あの……私に抱かれる夢、だったんでしょう?」
 自由になった手で両目に置かれた手を掴む。再び光の戻った視界では、きょと、と首を傾げる鶴丸が居た。
 されるがままになる気にも、ならなかったのだ。
 この、鶴丸と言う男は美しい人だと思う。否、人かどうかを疑えるほど奇妙で妖艶な魅力がある。病人であるがゆえの儚さや薄幸美を除いても、眩い。こうしてまじまじ見つめると、いっそ、底の見えない不気味な恐ろしさまで、潜んでいる。
 どうせ口付けされるなら女のほうが良いし、どうせ抱くなら、それも女相手の方が良いに決まっているのだが、そうした、本能的理性とでも言うべき感情を捻じ曲げた、あるいは潜り抜けた奥の、熱が、彼を貪りたがっていた。征服欲を膨らませていた。
 たぶん、美しい花ほど手折って傍に置きたくなるのやら、化け物こそ打ち砕いて侍らせたくなるのやらと、似ている。
「だったら……再現しないと……」
「……きみは、優しいなぁ」
 退いてくれた鶴丸と入れ替わり、今度は一期が組み敷く。
 見下ろした鶴丸は長い髪がシーツに散って扇情的だった。緊張か羞恥か興奮か、頬や耳に差す朱は、色白だから酷く目立つ。パジャマの襟をなぞれば、びくりと震えて息を止めるのが分かった。
 さて、黙って任せるよりは自分から抱きたいと思ったものの、同性を抱くなど初めてのことである。そもそも女性の経験だって片手で十分足りる程度でしかない。拙い技術でどれだけのことをしてやれるか、心配になってしまう。
「……私は、どんな風でした? あなたはどう抱かれたんです?」
 下手さは隠しようがないが、この不安だけなら誤魔化せる。外面くらい繕いたい。子供っぽい自尊心だった。
 鶴丸は、え、と言葉に詰まって、それから、脳内で例の夢を回想したか、みるみる首まで真っ赤になって行く。夢の自分と勝負をするほうがハードルが高いようにも思えてきたが、引きさがれはしないので、彼の唇を見つめて待つ。
「ま、まず、服を……脱ぐよう、言われた……」
「……では、服を脱いでください、鶴丸さん」
「ぅ……うん」
 乳白色のボタンを弾けば、震える指が伸びてくる。片手でははだけさせてやるくらいしかできないのが歯がゆいが、露わになった素肌に手を這わせれば滑らかな感触に夢中になる。腹やら胸やら首元やら、くすぐったげに身をよじられても一通り撫でて堪能した。
 女のような乳房は当然ない。だが、色の白さや肌のきめ細かさは、女性のそれよりずっと美しく感じた。また、病人の割には貧弱すぎず、しなやかな肉がついている。
「……次は?」
「つぎ、は……これ……」
 枕の下に伸びた手はローションを握って戻ってくる。例の夢を見た翌日、知り合いに頼んで買ってきてもらったと言う。ノリの良いその友人は鶴丸の話を冗談だと信じきって、面白がり、すぐさま買い物へ走ってくれたそうだ。
 受け取ってパッケージを確認する。身体の下では鶴丸が、真っ赤な顔をしたままズボンと下着をずらしていた。冷房のきいた部屋で病人を全裸にするわけにもいかないからそれ以上の脱衣は止めて、太ももの半ばまでずり下されて絡まる服ごと脚を掴み上げておき、腰下あたりに枕を押しつける。察した彼が体を浮かせたので、上手く下に敷きいれることができた。女相手なら枕に巻き付けられたタオルだけ抜き取って敷くところだが、枕ごと入れたほうが互いの体勢に無理がないと思ったのだ。
「冷たいでしょうが、少し我慢してくださいね」
「んん……ン……」
 この手のボトルは片手で開けられるキャップデザインになっている。爪先で弾いて開けて傾ければ、とろとろと中身が流れ出た。透明な液体にまみれた尻肉の谷間の延長線上には間違いなく男性器が見えるのだが、それが視界にあっても不思議と不快感はない。むしろ、蜜の滴る果実を思わせて喉が鳴る。
 なぞれば潤滑剤が絡まり、卑猥な音がした。濡らした指で窄まりを撫で、つぷんと押しいれる。柔らかな内壁は指を食い締め、密着して、熱い。指先は想像していたより抵抗なく沈んでいく。
「……ここ、自分で触ったことは?」
「ぁ、少し……夢を見た、あとに……」
「嗚呼、それで……柔らかくて、女の子みたいですね」
「ん、う、ぃ、やだ、いちご、っ」
 女子のようだと形容したけれど、衣服が絡まったままの脚を抱えて喘ぐ鶴丸は下手な女子よりずっと愛らしい。閉じることも開くこともできない両脚の隙間からは真っ赤に染まった鶴丸が見えて、細められた目はとろりと潤っていた。
 ぐるりと内壁を撫で混ぜる。ぬるぬるに濡れて淫靡な肉壺へと変化していく。爪を剥がされて飲まれそうだった。弾力のある襞が、うねり、震えて、指先を奥へ奥へと引きずり込もうと動くのである。たまらず指を増やすと、淫猥に蠢めき、増えた指ごとまた奥へと誘われた。
 閉められたカーテンが体内の密度をより閉塞的に感じさせる。隙間から覗く僅かな青空は背徳感を煽るし、うなじを掠める冷房の微風は生々しかった。冷静になるどころか興奮する一方で困る。中を解す大切な作業すら焦れったい。
「ぁん、う、ぅ……あ、ふ」
 喘ぐ唇は発情し色づいて、艶やかだ。片腕を覆う重く邪魔な荷物がなければ、身を屈めて喰らい付き、貪っていたと思う。
「……鶴丸さん……次は?」
「ひ、ぃあ……ア、つぎ……次は、その、一期の……いれて……んん」
 指を引き抜くだけでも悶える癖に、本当に性器が入るものか、入ったらどうなってしまうのか、想像するだけでも気持ちが逸って仕方がない。
 ベッドの端にひっかけておいた鞄を取り上げ、財布の中からゴムを取り出す。残念ながら普段からこういう事態に備えているとかそう言うわけではなくて、運が良くなるだか何だか、昔誰かに聞いたのを冗談半分に実践しているだけだったが。古くなると良くないとも聞き、だいたい月に一度取り換えていて破損はないだろうから、使えるはずだ。
 いくら女ではないから妊娠の心配がないと言っても病気の危険性はあるし、そのままだと鶴丸が腹を壊す可能性があるし、後始末も面倒になる。つけておけば、ついでに、潤滑剤の足しになろう。
 下着ごとジャージを下ろせば、痛むほど膨らみきっているのがわかった。これ一枚しか無いのに片手だから、装着には慎重になる。袋だって歯で噛みちぎるしかないのだ。しかし利き腕が無事でよかった。折れたのが右だったらどうにもならない。
「一期、きみ……夢と同じことをするんだな……」
「え?」
「夢でも律儀につけてくれてたから……いま、俺、何も言わなかったのに。ありがとう、うれしい」
 実に卑怯だと思う。ずるい。上気したままの顔をふにゃふにゃと崩して、笑われた。腹底や腰から熱が身体全体へ駆け巡って、服の下にじっとりと汗をかく。口内には唾液がたまるし、飢えた感覚に襲われる。
 露出している太ももを撫で、尻を掴んで開き、あてがった。薄いゴム越しの濡れた肉壺は吸い付くように震えている。先端を押し付け、淵が広がっただけでも生々しい暖かさが腰に響いて心地が良い。雁首までが収まればあとはゆっくり腰を進めるだけで埋め込める。指で触れていた時より締め付けと密着感が強い。狭い内壁が性器に合わせて変形していく感覚に興奮する。
 呼吸と鼓動と血液の循環。挿入しただけの状態でも、それらが重なって中を抉るらしい。鶴丸は細く短い声を上げて必死に酸素を追っている。潤み過ぎた両目からはついに雫が落ちた。
「……痛みます?」
「んん、平気……でも、ゆっくり……ゆっく、り、ぁ……あ、ぅ……」
 左のギプスが無ければ、もう少し器用に動いて、汗ばむ額に貼り付く前髪を拭ってやれたのだが。動く手で気休めに太ももや腹のあたりを撫でてやってから、腰を回して中を拡げる。ぬちぬちと湿った肉の音が響いて息が上がった。引き抜こうと動けば、奥に引きずり込もうとする力のせいで強い摩擦が発生する。ぎりぎりまで抜いてしまうと今度は押し出す力のほうが強まった。異物を排除しようというのだ。
 抵抗すればするほど快感が激しくなる。体内を駆け回り理性を融解し、魅了する、中毒的な悦楽。半端に抑えられて掠れた嬌声が鼓膜をくすぐるのも不味い。白肌を発情色に染めて、二つの蜂蜜飴を蕩けさせている光景も刺激的過ぎる。
「ん、あ……ふ、ぁん、ンっ…」
 数日前に出会ったばかりの相手である。彼について知っている確実な情報といえば部屋の入口にもつけられている名前くらいだ。性交のような体力を使う行為をして良かったのかどうかもわからない。
 鶴丸の哀願にも似た誘いをはねのけるなど簡単だったはずだ。というより、普通は訝しむだろうし、逃げ出すだろう。けれどそうした選択肢は思い浮かびもしなかった。むしろ積極的になってしまった。出会った瞬間から彼の虜になっていたのか、無自覚なだけで同性同士での性行為を求めていたのか。非現実的に考えるなら、彼の“夢”がもたらした結果か。
 心地良さに酔っていると、快感が一定量に達したところで妙に冷静になる。それをすぎたら今度は泥沼のように深くて淫らな快楽に襲われて、もう肉を穿つ以外に向ける意識が消失する。
 動けば動くほど、甘い喘ぎが鼓膜を撫でるのがたまらない。鶴丸の、開かれたままの口からは赤い舌がちろちろと揺れて扇情的にもほどがある。届かないのが分かっていて体を丸めると、より奥深くを性器が抉るらしい。敏感な先端部がきゅぅきゅぅと締め上げられて、耐える間もなく極める。ゴムに阻まれて行き場をなくした精液が、内側でどろどろと性器にまとわりつく感覚に呻いた。
「っあ、ア、ひ……ッ」
 内壁が小刻みに痙攣している。見下ろせば腹に白濁が点々と散っていた。
 射精後の内部は挿入しているだけで再び勃起できそうなほ性的刺激に満ちている。
「つ、るまるさん……」
「……ん、ぁ……あ……」
 焦点定まらない目線は、一期を捉えようと必死に揺れていた。反応しそうになって、慌てて引き抜く。コンドームの先端に絞り寄せられた液溜まりがつぷりと抜ける瞬間に、また高く短い喘ぎが上がって、その色香には耳を塞ぎたくなる。
 使用済みのゴムは取り外すことはできても片手で結ぶのは難しい。そのまま捨てるのは躊躇われた。トイレに流すわけにもいくまいがどうしたものかと処分に悩んでいると、存外早く息を整え起き上がった鶴丸に奪われる。
「あの、それ……」
「良い。俺がどうにかしておく。……それより一期、ありがとう」
「いえ……再現すると言っておきながら、途中からは好き勝手にしてしまってすみませんでした」
「そんなことない、大丈夫だ。ほとんど夢と変わらなかった……いや、夢より良かったな。きみの体温や興奮が感じられて、すごくどきどきしたし、ふわふわした」
 あまり可愛いことを言わないでほしい。
 今なら口付けできてしまう距離感だった。自分からそこまでしてしまったら今度こそ本当にどこへも引き返せない予感がして、唾をのむ。
「だめ。もう、人が来てしまう」
「……っ」
 知らず知らず体は傾いていたらしく、半開きの口の、下唇を、むに、と突かれた。向けられた悪戯っぽい笑みに、心臓が疼く。
 今は引き下がるしかないが、次に会った時にはわからない。頭が冷えていればいいが、明後日にはまた包帯のために来院するのだ。たった二十四時間で、このときめきが変わるだろうか。

 

 

 

 

 三度目ともなればそわそわと何度も部屋番号を確認することもなく、入口横の数字を、ちら、とだけ見やってノックする。
「……あれ」
 扉は、ガタッ、と揺れるだけで開かなかった。また中で鶴丸が押さえているのかと力を込めてみるが、変わらない。もう一度ノックをして、声をかける。
「鶴丸さん、外出中なんですか。……それとも、もう会ってくれないんですか」
 幾度試しても、がたがたと音が立つだけで開く気配はなかった。諦めるか、売店などを見回ってからもう一度来るか。扉に手をかけたまま思案する。
 あの日から一日、ずっと鶴丸のことばかりを考えていた。ついにはもう一度抱きたいとまで思うようになった。一期に抱かれる夢を見るくらいなら気があるんだろうとか、鶴丸が嫌でないなら心身共に親しくなれないだろうかとか。あの日は再現のために抱いた形でしかなかったが、淡い期待を持ってしまう。
 恋愛感情の伴わない肉体関係というのが、中途半端であり不安定であり、どうにも落ち着かない、というのもあった。兎にも角にも、もう一度会って、話をしたかった。
「あの……どなたかへの面会ですか」
 後ろから女性の声。振り向けば若い看護士が居て、不審がる目を向けていた。
「嗚呼、えっと……この部屋に入院していた、五条鶴丸さんって人に会いに来たんですけど……」
「五条さん……ですか、すみません、私にはちょっと……ただ、その部屋は空き部屋ですよ。部屋をお間違えでは?」
「えっ……」
 彼女から視線を外してドア横の部屋番号を見る。すぐ下に書かれていたはずの彼の苗字が消えていた。番号ばかり見ていたから、空欄になっているのに気づかなかった。
 いつからだろう。今日ここにたどり着いた瞬間はどうだったか。前回来たときはまだあったろうか。自分の記憶に自信がなくなってくる。
「退院、したんでしょうか……」
 問うた相手は首を傾げるばかりで、鶴丸に関しては何も知らないようだった。
 長く入院していた患者が、突然退院することなどあるだろうか。退院が決定していたなら、なぜ一期に伝えてくれなかったのか。退院できるなら、わざわざ夢の話をして一期に迫る意味も無い。
 夢が正夢になったから、本当に退院できたのかもしれないが、それにしても急すぎる。本当なら今頃、この胸中の“夢”を彼に話していたはずだのに。
 もともと、謎の多い男だった。目の前の彼女が知らないだけで、部屋を移っただけかもしれない。出会ったのも偶然である。再会もまたそれを期待すれば叶うだろうか。
 夏の、冷房のきいた廊下で立ち尽くす。
 予定は未定であり決定ではない。とは良く言ったものだ。

 

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