C.きみの名残を
粟田口一期にとってそれは最早見慣れた景色の一部となっていた。
彼を学内で見かける際に必ずと言っていいほど離れることなく彼の傍らに佇む一人の男の姿。
どんな時も常に寄り添うあの男は彼の恋人なのだろうと見かけては落ち込む日々。
袖振り合うも多生の縁と言うのならば、初めて言葉を交わしたあの出会いも一期にとってはひとつの縁だ。
「すまんな、少し急いでいた」
大学の図書館で書棚の間を通る際にすれ違いざまぶつかってしまい、そのまま互いに持っていた本を床へとばら撒いてしまった時だ。
背は同じくらいだが、細身で驚くほど白い肌に色素の薄い白に近い色の髪を持った美しい人。
一瞬で目を奪われる。
手渡された本を受け取ることも忘れ、ただ目の前の彼の顔をじっと見てしまった。
「どうしたんだい?」
打ちどころでも悪かったかと尋ねられ、一期は慌てて首を横に振った。
まさか貴方の顔に見惚れていたなど言えるわけがない。
「すみません、ありがとうございました」
これだけ美しい人は見たことがないと心の底から思った。
既にこの時点で彼に一目惚れしてしまっていたのだろうけれど、同じ男に対し全くそういった興味はない筈だと心の中で言い聞かせ、一期は礼もそこそこにその場を逃げる様に立ち去った。
もう少し話をしてみれば良かったかもしれない。
いや、仮に会話をもう少し弾ませてみようとしたところで、良くて友人止まりがオチだ。
それに後から知ったことだが彼には恋人がいる。
彼の傍らで微笑む空色の派手な髪色をした男は、此方に気づくとそっと彼から離れてしまうのか何処かに去ってしまい、その姿をはっきりと見たことはなかったが。
彼の傍らには必ず一人の男がいた―― 。
ただ、それがおかしいことだと気づいたのは、梅雨が終わったばかりの夏の日の放課後。
突然の夕立に慌て逃げ惑う学生たちの群れの中で彼を見つけた時だ。
空き教室で夏休み前のレポートに追われていた一期は、ふと窓の外の景色に目を止めた。
土砂降りの中で彼が透明なビニール傘をさして雨の中を足早に歩いている。
隣には勿論、あの男の姿。
あぁ、本当にいつも一緒なのだなと。
正直な話、気落ちしてしまったのは言うまでもない。
「……ん?」
窓ガラスに激しく打ちつける程の強い雨の中で、何故あの男は傘もささずにいたのだろう。
それに肩は勿論のこと髪も全く濡れていなかった。
一方で隣で傘をさしているものの、肩や背中が濡れている彼の姿を目にする。
背中に冷たい汗が一筋流れ落ちる。
一体、あの男は何者なのか――。
「気になるのかい?あぁ、彼のことだよ」
夏休みも目前に迫った大学の一角にあるカフェテラス先で、偶然にも彼の姿を見つけ自然と視線をそちらに向けていたところで不意に話しかけられる。
いつの間にそこいたのだろうか。
伸ばした前髪で整った顔を半分隠し、男にしてはやけに綺麗な髪を一本にゆるく束ねた男が何故か向かい側の席に腰をかけていた。
この男は誰だろうかと思う前に、彼を見ていたことに気づかれたという羞恥で動揺を隠せない。
アイスコーヒーが淹れられたプラスチックのカップを持つ手に自然と力が入り、カップが音を立てて凹んだ。
ぺこん、という音に目の前の男が苦笑いする。
間抜けだ。
「あ、貴方は?」
「僕は青江。青江貞次と言うけれど、でも僕の名前なんかよりも君は彼に興味があるんじゃないのかい?随分あついよねぇ……あ、君の視線のことじゃあないよ。季節、夏だからかな」
「……青江さんは彼のことを知っているのですか?」
「まぁね。君のこともだよ、粟田口一期くん」
そう言って青江と名乗った男は目の前に置かれたアイスティーを美味しそうに飲んだ。
何故、私の名前を知っているのだろう。
それに、何処かで青江を見たことがあるように思えるのは気のせいだろうか。
だが、青江のように胡散臭いというか怪しいといった意味で目立つ様な人間を自分は忘れることがあるのだろうかと首を傾げる。
「貴方とは何処かでお会いしたことがあるのでしょうか。どうも初めてではないような……」
「ふふ、そういうのってナンパしてるっていうのかな」
「違いますな」
男であるのに綺麗な顔立ちをしていることや、妙な色気があるのは確かだが、男をナンパするような酔狂な趣味を一期は持ち合わせてはいない。
「おやおや、つれないなぁ。君が興味あるのは今も視線の先にある『彼』だけってことかな」
「ち、違いますっ」
不意を突かれ、思わず声が上擦った。
青江の視線の先には彼の姿。
自然と頬が熱くなり、動悸も早くなる。
熱い、全て、夏のせいだ。
「でも、そうだねぇ。僕は君のことも彼のことも詳しく知ってるって言えるかな。ねぇ、粟田口くん。彼のこと―――五条鶴丸の全てを知りたいって顔をしているよ」
彼の名前は『五条鶴丸』というのか。
目の前の青江に感謝しつつ、五条鶴丸と言う名前を忘れない様にと心の中で呼んでは繰り返す。
正直、名前を知っただけで必死な自分の姿は傍から見たら滑稽そのものだろう。
「名前を知ったら次はもっと彼のことを知りたくなる。年齢、どの地域から大学に通っているのか、一人暮らしなのか、好きなもの、嫌いなもの、在籍している学部、どんな相手が彼の好みのタイプなのか。そう、そして常に隣にいる――男の存在」
彼は五条鶴丸の恋人なのか否か。
鶴丸の傍らにいる男に抱いているこの感情に名前を付けられた気がした。
反論しようにも、どう言葉を返せば良いのか分からない。
「君にも見えているんだねぇ」
青江に続いて友人らしき相手と談笑しあう鶴丸へと視線を向ける。
今日もあの男は傍らで彼に微笑んでいる。
「君にも見えているとはどういう意味なのでしょう」
「おや、気づいているはずだよ。ここでは……そうだねぇ、君と僕以外には彼の姿は誰にも見えていない。勿論、五条鶴丸も気づいていない。あれはこの世で最も美しくて、最も醜いもの。人の言葉を借りれば執着とでもいうのかな。それとも――恋、か」
「……恋?」
「あぁ。でも、もっと簡単な言葉がある」
『幽霊さ』
「先程から聞いていれば、貴方は私をからかっておいでですか?」
「本当に僕が君をからかっていると思っているのかい?」
答えになっていない。
質問に質問で返されてしまえば、戸惑うばかりだ。
「夏だから怪談話を口にされているのだと思いたいところですが、事実は事実。あれが貴方の言う非科学的なものであったとしても、確かに私にはあの男が見えます」
近づくとすぐ消えてしまう理由が青江の言った『幽霊』だからなのであれば、半信半疑ながらも頷くことは出来る。
それだけ青江の言葉には妙な説得力があった。
「あの男はずっと五条さんにとり憑いているのでしょうか」
「気になるのかい?」
「気にならないと言えば嘘になりますな」
「へぇ……それなら、君があの男を払うといいよ。そうだ、今晩空いているかい?」
先ほど知り合ったばかりの青江という不思議な男は、怪訝そうな目で見る一期に向かってにっかりと笑った――。
「……此処は」
一番最初に視界に映ったのは見知らぬ天井だった。
そして、胃液が喉元までせり上がってきているせいか気持ちが悪い。
思わず一期は自分の口元に手を当てて吐き気を堪えた。
自分の部屋ではないことは明らかだ。
クリーム色の天井壁に、横目でちらりと見えるのは簡易的な木のテーブルに対となる椅子が一脚、それと画面が開かれたままのノートパソコンが一台、その隣に無造作に積まれた数冊の本、次いで四角い手のひらサイズのデジタル時計。
時計の画面に映る数字は二時十五分、終電はとうに無い。
「しまった!!!っっ……う」
勢いよく起き上がれば、一気に血の気が下がる。
「おいおい。急に起き上がることはないだろう」
「え……」
あまりの驚きにあれだけ酷かった吐き気も何処かへと吹き飛んでしまった。
彼が、あの五条鶴丸が目と鼻の先にいる。
風呂上りなのか濡れた髪から雫が一滴、一滴と首にかけたバスタオルに染み込んだ。
少しだけ上気した頬が艶かしく見え、目の毒だ。
「気がついたようだな」
何故、どうしてという言葉が脳裏に浮かんでは直ぐ消えていく。
「ほら、返事はいいから。先ずはタオル」
小さく頷いて鶴丸から差し出されたタオルを口元へ運び抑えた。
「それとレモン水。口の中がさっぱりするだろ」
ペットボトルからグラスへと波々と注がれたそれを受け取り口にした。
確かに酸っぱさで気分の悪さも幾分和らいだ気がする。
「すみません」
「いいや。ちなみにどれについてだい?」
「全部ですな……」
「ぶはっっ、面白いな。粟田口は」
彼の口から『粟田口』と名前を呼ばれ、思わず胸が高鳴る。
落ち着け、粟田口一期。
その前に、もっと重要なことがある。
「五条さんは何故、私の名前を?」
「そんなことも忘れちまったのかい。飲みすぎだぜ」
今日の飲み会で青江がきみを紹介してくれただろう。
隣の席になったのを覚えていないのかと言われ、痛むこめかみを抑えて記憶を辿る。
そういえば名乗った気がする。
「まさかきみを紹介されるとは思ってなかったな……それも、オカ研の飲み会で」
「おかけん?」
「オカルト研究会。俺は青江と古くからの知り合いだから属してはいなけれど面白いからたまに顔を出すんだ。しかし、今年の犠牲者はきみだったのか」
「犠牲者」
「青江が逸材という名前で犠牲者をスカウトしてオカ研の飲み会に誘うんだ」
元々スカウト目的とは知らなかったが、この様子では一期の目的が別にあったことには気づかれていないようだ。
ちょうど今晩集まりがあるから五条鶴丸に君を紹介しようと青江は言った。
青江の話では鶴丸に近づけば自ずと追い払う方法も見つかるだろうという曖昧な説明を受けていたから、正直なところ知り合ったはいいかここから先は何をどうすればよいのか分からない。
「あぁ、それと。きみの着ていた服は汚れてしまったからバケツに突っ込んでいる。朝になったら洗濯機を回すから、すまないがそれまでは俺のTシャツでも着てくれ。幾分マシだろうから」
そう鶴丸から灰色のTシャツを手渡され、そこで初めて気がついた。
自分が黒いボクサーパンツ一枚でソファに寝かされていたことを。
どれだけ彼に迷惑をかけたのか、全く覚えていないだけに事実を知るのが恐ろしい。
「後で必ずお詫びします。それにこの部屋はもしや」
「あぁ俺の部屋だ。殺風景ですまんな。店から一番近かったし、それにきみの家がどこにあるか分からないから一緒に連れて帰ってきてしまった」
「……」
「そんな気にすることじゃあないぜ。それに、きみとは一回こうしてゆっくり話をしてみたかったからな。いい機会だと思った」
「私とですか?」
「図書館でたまにすれ違うからな。それと、もうひとつ理由がある」
こんな時に不謹慎だろうけれど、自分を覚えていてくれたのかと自然と心が踊った。
だが、鶴丸の次の言葉で浮き足立った気分はあっさりと落ちる。
「懐かしくなったんだ」
今日紹介された俺がそんなことを言うなどきみはおかしいと思うだろうな。
「懐かしい?」
「昔馴染みにまた会えた……いや、そんな気がして」
彼が愛おしさを含んで一期を見た。
堪らなく嫌な気持ちになるのは何故だろうか。
一期が今ここに、鶴丸の一番近くにいるというのに。
鶴丸が自分を見ていないことに気づき、図々しくも苛立ちを覚えた。
「その昔馴染みという方は五条さんの恋人ですか?」
真っ先に一期の脳裏に浮かんだのは、あの男の姿だ。
今まで気付かなかったのが不思議なほど彼の姿は一期と似ていたと言うのに。
「……さてなぁ。随分昔のことだからな、どうだったか」
困った様に眉根を寄せ鶴丸が呟いた。
悔しさはあるが、鶴丸の言葉で僅かに自分にもチャンスがあるのだと思い直す。
酷く前向きなことに一期自身が驚いているけれど、たったひとつの可能性を逃すほど臆病でも無かった。
今はいない相手に嫉妬したところで無駄な話だ。
思い出はずっと綺麗なまま残るのだから――。
「気に障ったのなら謝ろう」
「いえ。ただ、五条さんの昔の恋人が私と似ているのであれば勝算はあるかと」
「勝算?」
「えぇ。貴方を手に入れられるという確率がそれだけ大きいということですな」
鶴丸の一期に対する態度からみても、一期に対して悪い印象は抱いていないようだ。
酷い自惚れなのは百も承知。
昼間、青江と似たような会話をしていたことを思い出す。
あの時は男を口説く趣味など持ち合わせてはいないと即答したが、一期が鶴丸に対して抱く感情は青江や他の男とはあきらかに違うことなど既に自覚済みだ。
「くっ、粟田口は面白いな。そうだなぁ、仮にきみが俺を口説こうとしているとしよう。それで俺がきみに応えると思っているのかい?」
「もちろん、全く見込みがないわけではない。つまり完全な敗北ではないだけの話です。それに貴方を口説こうとしている点では仮定ではないですな」
鶴丸が大きく目を見開き、唖然とした表情を浮かべた。
『五条さん。私に口説かれてみませんか?』
「え……いや、単なる冗談だぜ?」
「何を怯えているのですかな。そもそも、五条さんが怖気づく要素は全く無いでしょう。何しろ私ときたら、締まらないことに酔い潰れて醜態を晒した挙句、下着一枚の無防備な姿です。そんな男が貴方をこれから口説こうとしているだけなのですから」
僅かに後ずさる鶴丸へと手を伸ばし、その白く細い腕を掴んだ。
表情を強ばらせる鶴丸へ自嘲気味な笑みを浮かべて見せる。
「貴方を怖がらせるつもりは毛頭ありません。ですが、もし貴方が私の手を取ってくださるなら遠慮など一切致しませんことをお忘れなく」
「ず、ずるいぞ。きみは……俺に選択を委ねているように見えるが、実際には断れないように退路を絶っているだろう。今、ここで追い出すなど出来るわけがない。こんな真夜中にほぼ全裸の人間を、だ」
「ずるくて結構ですな。それに負け戦など性に合わないもので」
「……」
「五条さん?」
「……こんな筈じゃあなかったんだ」
遠くからきみの姿を見ているだけで、それで満足すれば良かったのに――。
誰に向けてなのか、鶴丸が掻き消えそうなほど小さな声で呟いた。
目の前の一期にではなく。
遠くの、誰かに向かって。
まるで贖罪のようだった。
肩を震わし身体を背中を小さく丸める鶴丸をそのまま胸元へと引き寄せ抱きしめた。
湯冷めしたのか、すっかり冷えた鶴丸の身体は酔いの残る身体に心地良かった。
「もうひとつ。私のことは一期と呼んでください」
貴方の声で、貴方の口から、私の名前を呼ぶことの意味。
手に触れられる距離の私の存在を焼き付けて覚えてほしい。
傍らにいて、だが鶴丸からは見えていない誰かなのではなくこの場にいる自分を、粟田口一期という男を。
「……い」
「……」
「一期」
「はい。よく出来ました」
鶴丸に『一期』と呼ばれ、奇妙な懐かしさと甘さで胸が満たされた――。
「……っ」
日焼けの跡すら無い白い首元に顔を埋めれば、鶴丸が声を殺して身を捩る。
二人で寝転がるには狭い、三人がけの合成革の白いソファに鶴丸の背中を押し付けて白いTシャツを胸元まで捲り上げて臍のあたりを軽く手のひらで撫でればくすぐったいのかくぐもった吐息が鶴丸の口からこぼれ落ちた。
「手つきがいやらしいぜ」
「でもお好きなのでしょう?」
その証拠にTシャツの布地を通し、胸の突起が盛り上がっていた。
戯れに乳首摘んでみれば、艶のある声が吐息と共に漏れた。
「んっ……知らんっ」
顔を背け唇を噛み締めて堪える様子が何処か強がっているように見え、思わず苦笑すれば軽く睨まれた。
口元に唇を寄せれば少しだけ躊躇った後、何故か頬にキスを落とされる。
「なんですか、それ。あまりにも可愛くて我慢出来なくなる」
「誰が可愛いだ、誰が」
「目の前の五条鶴丸という人ですよ。あまり煽らないでいただけますかな?」
ゴムやローションを用意していないから今夜は最後まで出来ないというのに。
「生でしてもよろしいのであれば、お好きなように煽っていただいて構いませんが」
耳たぶへと口元を寄せて前歯で甘噛みをすれば、鶴丸の唇から艶を含んだ吐息が漏れる。
「う……っ、断るっ」
部屋の灯りと言えば木の机に備えつけられた古いデスクワーク用のランプだけ。
離れた場所にあるせいか一期や鶴丸のいるソファまで光は届かず仄暗い中で及ぶ行為。
エアコンの作動音と、ソファの軋む音と、そして互いの息遣いの音が重なる。
「んっ……嫌、だ」
「嫌ですか?」
手を止め、鶴丸の顔を覗き込む。
薄暗がりの中でも分かるほど、目が左右に動き泳いでいる。
「触り方がいちいちしつこい……むっつりスケベめ」
照れもあるのか、やけに饒舌だ。
そのくせ、固く張り詰め始めた一物を生地ごと一期が手で撫でるとびくんと小さく震えた。
「?!おい、ちょっと待て。いや、待ってくれないか」
「待てませんな。どうせ私はむっつりです」
「すまん、言葉のあや……っ?!」
ウエストのゴム部分に指を引っ掛け一気に下着を太腿まで下ろす。
固く反り立ち始めた鶴丸の一物を掴み、根元から亀頭に向かって扱いだ。
「一期っ!!!」
「しっ、夜中ですぞ」
慌てて口元を両手で抑える鶴丸に声を立てないようにと促し、それでも手を止めることなくゆっくりと表皮を擦った。
激しく根元から先端の亀頭部分へと扱いでイカせてしまうのも良いが、それよりも焦らして鶴丸から一期が欲しいと強請るように仕向ける方が何倍も楽しいだろう。
鈴口からポロポロと先走りの液が涙のように零れ落ちる。
手を上下にゆっくりと扱ぐ度に透明な雫が零れ落ち、握っていた指先を伝って根元を濡らしていく。
濡れた下の毛が徐々に湿り気を帯びてくる。
「ふっ……んっ」
肩を震わせながら感じまいと必死に耐えているらしい。
懸命に耐えている顔はなかなか唆るものがある。
ガラ空きな胸元へと顔を寄せ、捲れ上がったTシャツの裾から見え隠れする鶴丸の乳首を口に含ませ舌先で転がす。
ぷっくりと赤く腫れた突起の輪郭を舌先でなぞり、時折強く唇で吸い上げる。
過去の亡霊ではない、今、なにもかも白いこの人を赤く染め上げているのは――自分だ。
「いち、ごっっ……んあっ」
頬や首元にかけて朱が走り始める。
肌を上気させ、嫌だ嫌だと首を横に振られた。
体勢を変えて薄らと涙を浮かべる目元に軽く触れるだけのキスを落とす。
「気が変わりました」
「……?」
一期の言葉に身体の下に組み敷かれた鶴丸の顔に疑問の表情が現れる。
空いた手で鶴丸の額に滲んだ汗を拭い、濡れた前髪をそのまま指で掬い上げた。
「――最後まで私にお付き合い下さい」
鶴丸の目が大きく見開かれ、蜂蜜色の瞳が揺れた。
その瞳に映っているのは、あの男に姿形は良く似てはいるが全く違う別の男、目の前の五条鶴丸をただ求める粟田口一期の姿だけだ。
くしゃっと顔を歪ませて鶴丸が笑みを見せる。
「きみの手を取った時から覚悟はしていたんだがな」
「五条さ…ん」
「……なんだ、きみは俺のことを鶴丸と呼んではくれないのかい?」
鶴丸から言われ、そこで初めて一期自身も鶴丸のことを名前で呼んではいなかったことに気づく。
肌身を重ねることに浮かれていると指摘されたようなもので今更ながら恥ずかしさが込み上げてくる。
「つ……」
「つ?」
「……鶴丸さん」
「ふっ」
あまりに真剣に一期が言うものだからおかしかったらしい。
声が上擦って引っ繰り返ったのはご愛嬌だ。
「はい。よく出来ました」
先ほど鶴丸に言った言葉を今度は一期が言われる。
何やら胸が擽ったい。
してやったとばかりに上機嫌になって笑う鶴丸の唇に自分の唇を重ね、その声を奪った――。
――夢を見た。
何故それが夢だと分かるのかと問われれば、認識した一期の姿が鶴丸の傍らに常にいたあの男だったからだ。
確かに、変な軍服を纏っているが顔が一期自身ではないかと思えるほど似ていた。
『一期』
日本家屋の渡り廊下を歩いて此方に向かって歩いてくる白い人は驚くほど鶴丸にそっくりだ。
やはり一期同様、鶴丸に似た人物は映画の撮影でもしているかの様な奇抜な姿をしていた。
『鶴丸殿』
どうやら彼の名前も鶴丸らしいが、つくづく夢とは都合の良いものだ。
『戦況は?相変わらず芳しくないのは百も承知だがな』
『私のいる第三部隊が最後の砦になりましょうな。第一、第二部隊は既に全滅。政府からの応援が来るのも残すところ一日あまりとなりましたが……鶴丸殿の第四部隊で主殿とこの本丸をお願い致します。練度も上限に達し隠居の身になられているのは百も承知ですが、腕はなまっておられぬのでしょう?』
と、意地悪く言えば鶴丸が不敵な笑みを返した。
『あぁ、暫くぶりに働かせてもらおうか』
顔を見合わせて互いに笑ったあと、無言のまま庭先へと視線を移した。
何か言葉を発しなければと思っているのに、こんな時に限って何も浮かばない。
『一期一振、もうすぐ出陣だよ。おやおや、お邪魔だったかな?』
振り向けば、青江とよく似た人物が立っていた。
こちらも一期や鶴丸と同じくなにかの映画にでも出るような珍しい衣装を着ていた。
『ははっ、そうだなぁ。そう見えたのなら喜ぶべきか』
『え?』
『ほら、行ってこい。きみたちの健闘を祈る――必ず、戻ってきてくれ』
手を差し出され、思わずその手を握った。
それが互いに叶わない願いだということも薄々は感じていた。
これが最後になる。
『どうした?』
『鶴丸殿。貴方に、私の心を置いていきましょう』
離れ離れになっても必ず貴方を見つける目印となるように。
そう告げて、握っていた鶴丸の手の甲に唇を押し当てた。
『鶴丸殿にもご武運を』
唖然とする鶴丸に向けて一礼した後、青江を伴いその場を離れた。
『僕に遠慮することなかったのに』
『お気になさらず』
『おやおや、つれない返事だなぁ』
隣に並ぶ青江が何かを含んだ笑みを一期へと向けた。
その顔には、とても見覚えがある。
あれは初めてカフェテラスで青江に声をかけられた時のことだ。
そう気づいた瞬間。
景色は歪み、一期の意識は現実へとあっさり戻された。
「……奇妙な夢だ」
カーテンの隙間から差込む陽の光の眩しさに一度開いた目を再び細めた。
窮屈なソファの上で胸に鶴丸を抱いたまま眠っていたらしい。
「鶴丸さん」
顔を覗けば、鶴丸はすぅすぅと規則正しい寝息を立てていた。
白く長い睫毛が小さく震えている。
「もし、あの夢が本当なら」
鶴丸に寄り添っていたあの男が言った言葉を信じるなら。
「私が『鶴丸殿』に会う為の目印みたいなものだったのでしょうか」
都合のよい解釈だけれども、それでもいい。
漸く――貴方に会えた。
「無事、繋がったみたいでおめでとう。あぁ、やったとかそういう話じゃないよ。お付き合いって意味だよ?」
「……」
「あれ、違ったの?」
「……違いませんな」
あの晩からちょうど一週間。
鶴丸との待ち合わせまでの時間潰しの為に学内のカフェテラスでアイスコーヒーを飲んでいたところで、初めて会った時と同じくいつの間にそこにいたのか青江が一期の座っている目の前の席に腰をかけていた。
開口一番、鶴丸とのことを聞かれるという先制を奪われたせいかペースは未だ崩れたままだ。
「ひとつ、聞きたいことが。私はあの男を払えたのでしょうか?」
あの一期によく似た男は鶴丸との一夜以降、その姿を見ることは全く無くなった。
「僕の目からもいなくなったのは分かったからねぇ」
「でも、どうやって払えたのか私には分かりませんでした」
「大体、付喪神が幽霊になんてなるわけないよね」
「え?ツクモガミ?」
「いいや、こっちのことさ。まぁいなくなったんだからそれでいいんじゃないかな?」
怪訝な顔で見る一期に笑いかけ、青江が諭すように言った。
『だって今、この瞬間に鶴丸くんの手を握っているのはほかならぬ君だろう?一期くん』
「……」
「それで十分じゃないのかな」
なんとなくはぐらかされた様に思えるのだが、確かにそうだと頷いた。
「それよりもいいのかい?彼と待ち合わせしているんだろ?」
「あ、はい。それでは」
アイスコーヒーを飲み終え、その場を慌ただしく後にする。
背後で溜息と同時に青江の呆れた声が聞こえた。
「まぁあれだけ派手にマーキングされてればねぇ、見える人には見えちゃうよねぇ」
マーキング?
後ろを振り返ると青江と目が合った。
「どうしたんだい?」
「……いいえ」
「彼に宜しくと言っておいてくれないかい?今度繋がった記念でお祝いをしたいから三人で呑もうよって」
「丁重にお断りします」
「おやおや、つれない返事だなぁ」
何処かで聞いた様な台詞を口にして。
青江が一期に向けてにっかりと笑った――。